『読売新聞・歴史検証』(3-7)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 7

朝日を仮想敵とみなして抜き返しを図った読売再生策の成功

 松山の経歴自体は、すでに紹介したように、まさしく、専門家としてのジャーナリストのキャリア組とでもいえそうなものである。新聞エリート中のエリートである。そのうえに、当時もっとも近代的、資本主義的経営といわれた朝日で、経済記者から東京の編集長という十分すぎるほどの経験をつんできた。

 読売についても、朝日にいた当時から販売競争の相手方として、長所も弱点も研究しつくしてきたはずである。当時の朝日は、みずからの大阪方式の商法を発展させると同時に、東京の名門紙と対抗しながら、読売の文学新聞としての社風をも学び取っていた。朝日はすでに、二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、二葉亭の名作『其面影』や『平凡』、漱石の『虞美人草』、『三四郎』から、絶筆となった『明暗』にいたるまでの全作品を連載していた。

『読売新聞百年史』では、松山時代の読売が「朝日新聞を仮想敵とみなし、特に政治、経済、外交記事に主力を注いだ」としている。

 松山は、一九一九年(大8)一〇月一日の紙面で、読売の社長就任を発表すると同時に、つぎのような「新経営の読売新聞」と題する抱負をのせた。

「創刊以来四五年、半世紀に近い年月、本紙が果して来た歴史を論じ、従来の“穏健”の特色を保つと同時に多面“機敏”の実を挙ぐ、また、“趣味的”“家庭的”なるに加えて“実務的”“社会的”たらんことを期する」

 かなり欲張った抱負であるが、すでに紹介したように、松山は、「白虹事件」で大阪と東京の朝日を退社した有力な記者たちを確保している。さらにその他の各紙からも有力な記者たちが移籍してきた。読売の元主筆で早稲田大学新聞科の創設主任教授だった五来素川をも、再び論説委員に迎えた。

 五来は、東京帝大仏政治科を出て読売に入社し、一九〇四年(明37)に特別通信員の肩書きでパリに派遣され、ソルボンヌ大学に学び、ついでベルリンで政治学を修めた。その間、“在巴里”として、『白野弁十郎』(シラノ・ド・ベルジュラック)の翻訳脚本を掲載したこともある。明治の日本の新聞エリートとしては松山と良い勝負である。かつての主筆時代にはフィガロ紙をまねて「よみうり婦人付録」を創設し、与謝野昌子らを入社させたこともある。『読売新聞百年史』でも、当時のかれが「社勢のばん回にも寄与した」と評している。

 しかし、その一方で、五来の入社は、かつての対露主戦論の国粋主義者、中井錦城主筆の勧めによるものであったし、五来自身も『読売新聞八十年史』によれば「善人であり詩人肌の熱情漢であったが、国粋主義的な思想の持ち主であった」という。当時の社長の本野英吉郎や編集顧問の秋月左都夫らとは対立し、ついには、社長を椅子ごと突きとばしたり殴ったりという暴力沙汰を起こしたため、主筆在任八か月で退社のやむなきにいたっていた。

 松山は、この五来をはじめ、思想傾向をとわずに有能で外国通の人物を集めた。外交記事の強化は時代の要請であった。「仮想敵」の朝日に対抗するためには、通信網の整備も急務であった。『読売新聞百年史』では、つぎのように記している。

「横浜、大阪に加えて、千葉、静岡、宇都宮、浦和に支局を開設、国外は京城、北京、上海、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、ロンドン、パリに特派員または通信員を常置するなど、順次海外特通網をひろげていった」

 これだけのことを一挙にやるには、それなりの資金も必要であったが、松山のうしろには資本金一〇〇万円を準備した日本工業倶楽部の匿名組合がついていた。その後援によって松山は、三〇万円で読売の経営権を入手し、追加資金も得ていたのであった。


(3-8)プロレタリア文学の突破口となった読売の文芸欄