第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第九章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作 1
留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の逆殺事件
さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。
ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。
元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。
関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。
だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。
一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。案の定、二人とも、まったく知らなかった。詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。
王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。
中心的な理由は簡単である。当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。
王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。
象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。
写真3
写真4
関係資料は十数点ある。戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。
専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。
(9-2)「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見 へ