第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第七章 メディア支配の斬りこみ隊長 1
「蛮勇を揮った」ことを戦後も自慢話にしていた元「鬼警視」
さて、以上のような当時の国際および国内の政治状況を念頭に置いた上で、正力松太郎とは果たして何者かという問いに、いま一度、あらためて答え直す必要がある。
この設問にたいしては、さまざまな角度からの描写、説明、分析、解釈などがありうるだろう。
わたしがもっとも重視したい「正力像」は、以上に紹介したような当時の内務官僚OBたちの目から見たものである。なぜかといえば、読売に乗りこんだ当時の正力は、前警視庁警務部長であり、すでに一定の評価をえた社会的存在である。順序からいえば、警視総監就任を目前にしていた。そういう社会的存在としての正力に、新たな役割が振り当てられたのだという視点から、読売乗りこみを考えるべきではないのだろうか。
将棋にたとえれば、乱戦状態の局面で相手方の布陣のすきを狙い、ピシリと打ちこむ「横っ飛び」の桂馬のような役割である。おそらく正力は、少なくとも飛車ぐらいの実力があると自認していたであろう。本人にしてみれば不満な役割だったのかもしれない。だが、当時の局面からすれば、正力という駒の活用は、かれら内務官僚OBたちにとって、いわば「最後の奥の手」だったのではないだろうか。
正力には、そのように嘱目されるだけの、乱戦向きの強力な現場指揮官らしい実績があった。どの点がとくに嘱目されていたかといえば、つぎのような本人の自慢話のとおりの「蛮勇」ぶりであった。以下は、本人の談話による『悪戦苦闘』物語中の「米騒動鎮圧」の巻、「日比谷公園は音楽堂」の場の一節である。
「わたしは当時三三、四歳で鼻息の荒い時でありましたから、[中略]わたしが先頭に立ち六十余名の巡査を一団として、猛然群衆を突破して音楽堂にかけ上がり、幹部を突き落とし、あるいは検束しました。それは非常な勢いらしかったのです。この原庭警察署は当時から武道が盛んでありましたから、その巡査が、わたしや署長の指揮の下に、薄暗くて顔の見えぬのに乗じ、随分わたしとともに、蛮勇を揮ったものであります」
この『悪戦苦闘』という単行本は、一九五二年(昭27)に、万能型の評論家として当時名高かった大宅壮一の編集という形式で発行されている。大宅壮一自身が執筆した正力評も添えられているから、編著といってもいいだろう。わたしが「正力講談」として分類する単行本のなかでは、いちばん古いものである。
しかも、『悪戦苦闘』が発行された一九五二年という時期には、特別な意味がある。日本の歴史上では、四月二八日にサンフランシスコ講和条約が発行し、日本が曲りなりにも独立を回復した年である。『読売新聞百年史』では、この単独講和による状況を「名実ともに独立国となった」と記しているが、それは当時の読売が現在の改憲論とおなじような政治姿勢で、積極的に、単独講和推進論の紙面を構成していたことの延長線上での評価にほかならない。いわゆる「手前味噌」である。
読売と正力にとっての一九五二年は、それゆえにまず、単独講和推進論の勝利の年であった。つぎに単独講和は、実質的な日米同盟の形成と戦犯の公職追放解除を意味した。正力自身は、のちに紹介する事情によって、少し早目の前年、一九五一年八月六日に追放令解除となっていた。その事情の一端がまた、読売と正力にとっての一九五二年を特別の年にしている。正力は、公職追放中からアメリカ直結のテレヴィ放送網の建設を提唱していた。正力を社長とする日本テレビ放送網株式会社は、一九五二年七月三一日の深夜一一時四〇分に、日本の第一号のテレヴィ放送免許を獲得したのである。
ついでながら面白いことに、『読売新聞百年史』には「逆コースに挑む」という読売の紙面評価の項目がある。そこでは「公職追放解除」の全体像を、つぎのように位置づけているのである。
「追放解除は、すでに二十五[一九五〇]年十、十一月の両月、一万九十人に対し行われ、そのうち元軍人らは創設まもない警察予備隊に入隊した。さらに二十六年六月から講和発効の二十七年四月二十八日までには各界の追放者二十一万余が全員解除された。彼等は『戦犯・追放』という肩書きを一つ増やし、胸を張って“社会復帰”したのであった。このことは軍国主義者、超国家主義者としての個人の復権ばかりでなく、その思想内容の復権も意味するもので、逆コース風潮の芽生えとなった」
単純に読むと、これが本当に読売の社史の一節かと疑いたくなるであろう。ところがまず、この『読売新聞百年史』は正力の死後に、当時の務台社長の業績を最大限に評価する姿勢で編集されたのである。該当の「逆コースに挑む」の項では、一九五一年一一月二日から始めた連載記事、「逆コース」の内容を紹介している。当時の読売では、副社長の務台が中心になっていた。同書の表現によれば、正力が社主に「推挙」されて「公式」の復帰を果たすのは、三年後の一九五四年(昭29)七月七日のことであった。務台自身は、正力の追放解除と読売への復帰を望んではいなかったのである。
正力は、当然、当時の読売の紙面に欠かさず目を通していたにちがいない。だとすると正力は、自分の公職追放解除以後に開始された「逆コース」批判の連載記事を横目でにらみながら、まさに「苦虫をかみつぶす」思いをしていたのではないだろうか。
『悪戦苦闘』という本は、以上の事実経過に照らして評価するならば、いかにも正力らしい、乱暴で「ドス」の利いた「ムショ」帰り風の「社会復帰」宣言である。読売の記事の文句を借りるならば、「個人の復権ばかりでなく、その思想内容の復権」の宣言でもあった。内容はすべて、まさにその典型で、戦前の行為についての反省の色はサラサラない。
話を「米騒動鎮圧」の巻にもどすと、「日比谷公園は音楽堂」の場につづいて、「日本橋は米穀取引所」の場が演じられる。もともと米の値段の暴騰が直接原因の騒動だから、東京でも、この米穀取引所への襲撃は本命の山場である。
ここでも正力は、米穀取引所を襲っていた群衆に突入して、中心人物を逮捕する。ところがそのとき、投石が正力の頭に当たり、血が流れ落ちた。頭の傷というものは、軽くても傷口が裂けやすくて、かなりの血が吹きでるものである。ただでさえ人目につく事態なのだが、そのときの正力は、夏用の白の制服を着ていた。頭から流れ落ちた血は、正力の白服を赤く染めた。正力は、その状態を知りながら、わざとアーク灯の真下に立って、群衆をにらみつけたという。この勢いに押されて群衆は散るのであるが、大宅壮一は、このような正力の戦法を、つぎのように評している。
「このコツが彼の人生の後半部でも、舞台と扮装こそ異なれ、巧みな演出が行われて行くのである。これは彼の天性から出ていると共に、ある程度意識的、計画的になされていたらしい」