第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1
第二章 武家の商法による創業者時代の終り 1
本野子爵家の私有財産化した読売の古い経営体質の矛盾
だが、当時の世相も、ますます「速報」を求める方向を強めていた。
速報ジャーナリズムの「卑俗」性を、もっとも端的に立証してくれるものに戦争報道があるが、日露戦争から第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵と、血なまぐさい大事件が相次いだ。新聞の体質を決定づける速報競争の風圧は、ますます勢いを強める。おりからさらに、大阪の「がめつい」財界によって育成された大阪朝日、大阪毎日が、東京に進出し、商業的な新聞経営競争を激化させていた。
青野季吉の『一九一九年』の表現を借りると、当時の読売は、創始者一族の本野子爵家の「私有財産として」維持されていた。その古い体質のままでは、大阪朝日、大阪毎日の両紙などが「大資本で近代的な組織によってグングン発展して行く中に立って」、対抗しきれなくなっていた。青野の観察によると、読売は、子爵家初代の盛亨の「在世中に、すでに財政的に行詰まっていたのだが、子爵[二代目の一郎]は父からの遺業として、それを人手に渡すことをどうしても承知しなかった。で、子爵家の在世中は、ともかくもY[読売]新聞は、旧い経営の仕方と『旧い』編集の指導方針とによって、子爵家の半ば道楽仕事として、維持されていた」ということになる。
ここで青野は「旧い」という形容詞にカッコを付けることによって、「編集の指導方針」の「古き良き時代」にたいする両面の相反する複雑な気持ちを表わそうとしている。読売の文学的・文化主義的、または進歩的伝統の裏側には、一見それとは矛盾するかのような一種の貴族趣味の「道楽仕事」という「旧い」体質の側面があったのだ。
前掲の西岡長壽著『日本ジャーナリズム史研究』では、創業社長の子安が本野に社長を譲った時期のことについて、つぎのように評している。
「[子安は]そのときには官界を去っていた本野に社長の椅子を譲ったが、実権は高田[早苗]に譲ったのである。蓋し本野に子安ほどの経営手腕を期待することは無理であった。彼は出資者として社長の椅子にすわったにすぎず、その消極策はやがて明治四十年代の大沈衰期を招来するに至ったと考えられる」
明治初期には最先端を走っていた読売が、明治末期には「大沈衰期」をむかえ、大正期には、すでに「旧い」といわれるようになる。それだけ世相の変化が激しかったのである。
本野子爵家の二代目の兄弟の間のドラマにも、近代日本の矛盾と苦悩を象徴するかのような葛藤が潜んでいた。初代盛亨の長男として生まれた一郎と、その弟の英吉郎の対照的な関係について、青野は、つぎのように描いている。
「[一郎は]如何にもアンビシャスで、帝国主義日本の外交家として、R国[ロシア]に長く駐剳(ちゅうさつ)して、ツァーリズムを向うに廻して、おおきな手腕を振った。が、弟は、どちらかといえば万事に消極的で、思想的には、これこそ徹底したイギリス流の自由主義者であった」
初代盛亨は、読売の社長を引き受ける前に、一時、イギリス駐在の外交官を勤めていた。英吉郎は、その名が示すように、父親のイギリス(漢字表記・英吉利)駐在時代にロンドンで生まれ、英語をマザー・タングとして育った。いまでいう帰国二世の走りである。
長男の一郎は、モスクワ駐在のロシア大使だったので、家業の読売社長の椅子を、最初は従兄弟の高柳豊三郎、その没後には次男の英吉郎にゆずり、自分は初代社主となった。二人の兄弟は、すくなくとも表面上の性格を異にしていた。一郎の方は弟の英吉郎を「ボヘミヤンが……」とこきおろす。英吉郎は「[兄の一郎の]インペリアリズムは断じて不可!」といい続ける仲であった。
一郎は、その後、外務大臣になるが、その時期の対外政策の最大の問題がシベリア出兵であった。一郎は軍部の強硬方針を支持する。だが、個人としての一郎自身の内部には、はげしい矛盾と葛藤がうずまいていたようである。青野の筆はそのことを、やはり「自由主義者」として評価されていた読売の論説委員、奥野七郎(作中人物は奥田)の談話として記録にとどめている。
奥野は「外交係り」となって一郎の私設秘書役をしていた関係上、一郎の死の直前に、英吉郎との仲を取り持つべく、両人のあいだを往復した。一郎は、死に直面しながら、弟、英吉郎との握手を求めていた。奥野には極秘裏に、日本の社会主義運動がどれだけ進んでいるかをたずねた。
作中人物の奥田(奥野)は義一(青野)にたいして、つぎのように語る。
「子爵も、死ぬ前には、よほど変わっていたよ。ある日、側の人を遠ざけて、僕に小さな声で尋ねるんじゃ。日本のソシアリスト・ムーヴメントはどれだけ進んでいるかって、ね。僕は、この人がそんなことを考えているのかと思って、内心びっくりしたよ。僕はそんな方面は一向わからないが、近代思想というのが社会主義運動の機関紙として出ているといって聞かせたら、それをすぐ初号から取揃えてくれというんじゃ。そこで庄司君[上司小剣]がその雑誌の主幹の堤利彦[堺利彦]を知っているので、雑誌を揃えて貰うと、子爵は二、三日つづけて僕に読ませて、熱心に聞いていたよ。あの人は長い間、R国[ロシア]などへ行っていたので、死ぬ間際になって、日本のそういう方面が強く意識に上ってきたのだろうな」
一郎を蝕んでいた病気は胃癌であった。シベリア出兵の是非をめぐっては、国会で糾弾を受けながらも強硬論をつらぬき、一方では、鎮痛剤で胃の痛みを押さえていたという。一九一八(大7)年八月二〇日に実施されたシベリア出兵を目前にして、四月二三日には外相を辞任した。一郎が五七歳で死んだのは、シベリア出兵の直後の九月一一日のことだった。その間の病床に伏していながらの一郎の心のもがきには、まさに鬼気迫るものを覚える。
しかもこの時期、二人の兄弟はともに病魔に犯されていた。英吉郎の方は腎臓病だった。青野によれば、二人は死の直前に、奥野の取り持ちで無言の握手を交わしたとあるが、英吉郎が、やはり五五歳の若さで死んだのは、シベリア出兵実施直前の七月一一日であった。
シベリア出兵実施の八月二〇日をはさんで、政界と言論界の一角に座を占めていた本野子爵家の二代目の二人の兄弟は、親譲りの家業の読売の財政的危機を解決できぬまま病み疲れて、相次ぐ死を迎えたのである。
「売家と唐様で書く三代目」という江戸川柳そのままに、読売は、創業者一族の手を離れて人手に渡る運命にあった。
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