『読売新聞・歴史検証』(8-1)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第八章 関東大震災に便乗した治安対策 1

陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。若干重複するが、もう一度、月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。

 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。

 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。

 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。のちほど詳しく紹介するが、最近まで、ほとんど知られていなかった歴史的事実が、明らかになっているのだ。そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。

 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。


(8-2)「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力