『読売新聞・歴史検証』(4-1)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第四章 神話を自分で信じこんだワンマン 1

「僕ほど評判の悪い男はない」と蚊の鳴くような訴え

 いわゆる公認の歴史に嘘が多いのは、今に始まったことではない。神話や伝説と公認の歴史との間の違いは、実際上、ほんのわずかなものでしかない。社史もそのひとつであるが、読売の場合には、正力個人が積極的に誇大な自己宣伝をする性格だったために、ほとんど嘘ばかりと思って調べ直さないと、大変な誤りを犯すことになる。

 わたし自身は、日本テレビに入社したてのころ、廊下で何度か、「あの」柱のように垂直な姿勢のままソロリソロリと歩く怪老人とすれちがい、何度か道をゆずったことがある。のちに事情を紹介するが、正力は、刀の切り傷で首筋を曲げる事が不可能になっていたのである。

 そのころの日本テレビでは、正力のことを「ワンマン」と呼んでいた。戦後の政界で「ワンマン」の名をほしいままにしたのは、吉田茂であった。正力のこのあだなは、そのセコハンである。戦前の読売では「ヘソ松」と呼ばれていたという。いつもチョッキの下からワイシャツがはみでていて、ヘソが見える感じだったからだそうだ。戦後の日本テレビでは、そういう「元気」な姿は見られなかった。肉体的には、もはや、枯れ木同然の感じだった。

 この第二部では、当然、人並み以上に元気そのものだった当時の、前警視庁警務部長、正力松太郎の読売「乗りこみ」の経過を、徹底的に疑って追及することになる。すでに帰したように、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』以来、わたしは、正力の伝記の類いを「正力講談」と呼んでいる。江戸川柳の「講釈師、見てきたような嘘を言い」という意味の「講談」のことである。

 ところが、有り難いことに、その後、この種の「講談」作りの仕掛け人の一人が、まさに正力の墓石を暴き立てるような本を出した。「見てきたような嘘」批判についての、絶好の裏打ちが得られたのである。

 わたしは、その本が出たときに日本テレビを相手取る解雇反対闘争中だった。わたしの場合、解雇反対闘争が組合の全面支援をえていたこともあり、実質的に社内の出入りは自由であった。ペンネームで書いた旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』については、わたしが執筆者だということを確信する先輩や同僚が何人もいた。そういう先輩の一人が社内某所で、ある日、いささか興奮ぎみに、こう耳打ちしてくれたのである。

「柴田さんも本を出したよ。やっぱり噂通りだったね。これは、正力に対する徹底した恨み節だぜ。君とは立場が一八〇度違うけど、これは君にも参考になるよ」

 先輩がそういいながら、そっと手渡してくれたメモを頼りに、わたしは早速、その本を注文した。

 本の題名は『戦後マスコミ回遊記』(中央公論社)で、著者の柴田秀利は、元日本テレビの専務取締役だが、すでに故人である。

 わたし自身は柴田と、何度か廊下で違ったり、団体交渉の場で一、二度ほど顔を合わせた程度の関係でしかなかった。柴田は、団体交渉に出席するのは嫌いだったようで、発言の記憶はない。噂は色々と耳にしていた。おおまかにいうと、元陸軍特務将校の切れ者で、正力の懐刀といったところだった。専務のつぎには、社長の座を実力を勝ち取るかと見えていた。ところがなぜか、正力の晩年に続いたゴタゴタ人事にまぎれて、いつの間にか、姿を消してしまった。もっぱらの観測は、よくある話で、実力がありすぎるのが、かえってつまずきの原因になったようだ。自分の息子に跡を継がせようとするワンマンの正力が、実力のありすぎるナンバーツーの柴田を追い出したらしいのである。

 すでに紹介した『巨怪伝』は、柴田の『戦後マスコミ回遊記』を全面的に組みこんでいる。それだけではなく、柴田自身からも直接くわしく取材した話を加えている。『巨怪伝』の表現を借りると、柴田は、「正力松太郎によって歴史から抹殺された人々」の内の一人である。戦後のテレヴィ関係に限れば、そこでの筆頭格と評価しても良いだろう。

 柴田は、正力のたっての願いに応えて、『テレビと正力』という本を講談社から発行させた。表面上の著者は室伏高信になっている。室伏は、戦前にベストセラー『文明の没落』を発表し、その後は埋もれていた評論家である。だが、表題通りの第一部、「テレビと正力」の部分は柴田の口述筆記によるものであり、第二部だけが、室伏自身が書きためていた「マスコミ論」であった。『戦後マスコミ回遊記』には「この本の由来」が、つぎのように記されている。

「ある日、正力が私と二人きりの時、『実は僕ほど政界、財界を通じて、誤解され、評判の悪い男はないんだ。これでは日本テレビを成功させるためにも、思わしくないから、何とかこの際、君の手で……』と神妙な態度で申し出た」

 柴田はさらに、正力が「蚊の鳴くような声で訴えた」とも表現している。あの傲岸不遜の典型のような正力が、年下で部下の柴田に「神妙な態度で申し出た」り、「蚊の鳴くような声で訴え」る姿などというものは、およそ想像しがたい。しかし、前後の事情を考慮すると、論理的にはうなずけるのである。

『テレビと正力』の内容については、柴田自身が、つぎのような反省の弁を記している。

「よく読んでもらえば分かる通り、テレビ発足から、成功の目処の付くまで、創意工夫のすべては正力の発案であり、功績であるとして、彼を時代のヒーローに仕立て上げてある。[中略]そうしたことが、その後輩出したテレビ史や正力史に、さらに一層巧みに誇張され広く流布されているのを見て、責任の大半は私にあるとはいえ、笑止に堪えないことが多い」


(4-2)「創意の人」、実は「盗作専門」だった正力の晩年の我執