第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第四章 神話を自分で信じこんだワンマン 2
「創意の人」、実は「盗作専門」だった正力の晩年の我執
読売や日本テレビの社史も、まさしくその伝である。柴田は、具体的な「仕立て上げ」とその「誇張」の例を、詳しく指摘している。この手の正力講談のなかでも、いちばん典型的なのが、「街頭テレビの発案者」の問題であろう。
日本テレビは、発足当初、電波がとどく関東一円に約二〇〇台の街頭テレビを設置した。
この独特のアイデアの成功による予想以上の観衆動員が、経営開始後七か月で黒字に転ずることを可能にした決定的条件であった。受信台数によってではなくて、時には一台に一万人以上も群がった街頭テレビの観衆という、受信人数で計算できる宣伝効果によって、広告収入が、うなぎのぼりに上昇したからである。先輩国のアメリカでは、トップを切ったNBCが黒字を出すまでに四年以上かかっていた。NBCの親会社RCAはテレビ受像機のメイカーだったから、受像機販売の利益をNBCにつぎこんで、この四年をしのぎ切った。日本テレビは、その四年の記録を、たったの七か月へと大幅に更新したのである。
『戦後マスコミ回遊記』には「黒字転化で世界新記録」というゴシック小見出しが立っている。その次の小見出しが「街頭テレビの発案者」である。
その項目で柴田は、「『開局四周年に当たりて』と題し、全社員を集めて行った正力社長の演説」の一部を紹介する。正力は、「街頭テレビ成功の秘訣を得々として語り、これがなかったら、広告はとれなかったと力説した上で、『こういう分かり切った原則をだれも考えつかなかった。手柄話をするようだけど、この平凡な原則を考え出したのは、私だった』と大見栄を切った」のである。これを聞いた途端に、実情を詳しく知る柴田は「あっけにとられた」。しかし、正力は「以来、どこへ行ってもそれを吹聴してやまなかった」のである。
真相はといえば正力自身、この演説の直前に当たる一九五五年(昭30)に「世界読書力財団」のスピアー会長宛てに出した手紙の中で、このアイデアをアメリカ人の技師、ホールステッドから教えられたと明記し、感謝の意を表明している。手紙の文章は、もしかすると柴田の代筆なのかもしれないのだが、そこには、つぎのように記されていた。
「日本でテレビ計画を始めたときから、本社はホールステッド氏の技術指導を仰いできた。[中略]中でも当地でテレビ経営に成功した一番の理由は、彼に教わった大型テレビ受像機による街頭テレビのアイデアであった」
同様の趣旨の記事が『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載されていた。そこで柴田は、その記事を正力に示す。
「たまりかねて私はさきにふれたリーダーズ・ダイジェストを彼に読ませた。ここに掲載されたホールステッドの伝記を読めば、多少は遠慮するかと期待した。しかし偉大な成功者となった彼には、もはや時すでに遅しであった。あきれたことに、私を呼びつけて怒鳴り出した。
『これはいったい何じゃ。街頭テレビを考え出したのは、おれじゃないか。直ちに抗議したまえ。撤回しなかったら告訴するぞ、といってやりたまえ。これは重大問題だ』
『それは無茶ですよ。教えてくれたのは、彼じゃないですか!!』
『違う。これは後々の歴史にとって、一番肝腎なことだ。断じて許せん』
もうこうなったら、手のつけようがない。恥かしくて、そんな抗議文など、書けるわけがない。黙殺するしかなかった」
柴田は正力と、戦争末期の読売時代から付かず離れずの関係にあった。日本テレビの創設の前後から、正力が完全におかしくなる晩年までは、いちばん身近にいた側近中の側近、いわば正力天皇の総参謀長格の人物である。その柴田の遺作が、これまた、正力の人格を完全に葬り去るものなのである。不徳の至りというほかはない。
晩年の正力への最大のごますり言葉は、「創意の人」であった。しかし、『巨怪伝』では、このほかにも、いくつもの「盗作専門」の実例を並べている。いちいち紹介するのは避けるが、あとは推して知るべしというべきであろう。
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