『読売新聞・歴史検証』(3-8)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 8

プロレタリア文学の突破口となった読売の文芸欄

 第一次世界大戦以後の日本経済は、さきに大正日日の出資者の倒産に見たような戦後恐慌に見舞われたりしたものの、全体としては史上空前の発展期を迎えていた。

 当時の「円」は一ドルが約二円で、やはり国際的に強くなっていた。軍事面でも、日本は世界の大国のひとつにのし上がっていた。背伸びの部分も多かったが、そんな状況下で新聞エリートたちも、大いに持てる能力を発揮することができたのである。

 松山はさらに強気になり、社長就任の二か月後には広告料の値上げに踏み切ったりした。営業部長になった五味秀也は、ロサンジェルスで新聞を経営した経験の持ち主だったが、アメリカ式の近代経営方式を取りいれ、将来の新社屋計画を練った。そのほかにも、漢字のルビの廃止、漢字制限、口語体への切りかえ、輪転機の高速化、電信局開設、電話の増設、販売配達網の整備など、あらゆる面での体制強化がはかられた。

 記事内容では、言論擁護の論陣をはる一方、「よみうり婦人付録」を「よみうり婦人欄」と改めた。与謝野昌子、山川菊枝、山田わか、高梨高子、平塚明子の五人を特別寄稿家とし、婦人記者を朝鮮、中国に派遣して通信を連載し、特集や臨時付録などの婦人向け企画を組んだ。

 三万部前後にまで落ち込んでいた読売の部数を、わずか四年で一三万部に押し上げることができたのは、以上のような努力の積み重ねによってであった。『伝記正力松太郎』でも、読売が「高い品位と厚い信用を文化人の間に持ち続け」ていたという評価をしている。「文学新聞」の伝統の新たなよみがえりといっても良いだろう。

 だが、この時期の日本文学には新興文学の一つとして、プロレタリア文学運動が生まれていた。読売は、この新しい文学の潮流が発展するうえで、大きな舞台を提供することになったのである。

 ただし、読売の社史は、この特筆すべき現象の評価に関して、動揺を繰り返している。『読売新聞百年史』では、なんと驚くべきことに「プロレタリア」という用語を抹殺してしまっている。そして本文ではなくて、欄外に、「階級文学是非ににぎわう文芸欄」というベタ・ゴシックによる小見出しの小項目を立てている。いわゆる「こぼれ話」の取り扱い方である。この欄外の項目は、活字も一段と小さく、人物紹介などの脚注的な記事を配している部分であって、いわば傍論の形式である。

『読売新聞八十年史』でのプロレタリア文学運動の取り扱い方は、『読売新聞百年史』とは、まさに天と地のちがいである。長さも本文で約三頁分ある。第四編第六章の六項のうち、「四」の項が「読売文芸欄の新人発掘」となっていて、その大部分がプロレタリア文学に関わるものとなっている。しかも、つぎのように、読売が果たした役割を大いに誇ってもいる。

「日本にプロレタリア文学なるものが台頭したのは、大正一〇[一九二一]年から一一年にかけてであった。もうそのころには朝日、東日、時事、国民などにも文芸欄ないしは学芸欄が設けられ、文芸記事は読売の独占ではなかったのであるが、読売の文芸欄をして特色あらしめたものは、実に、無名新人の登用であった。新興文学への紙面の開放であった。他紙の文芸欄が既成文壇にその場を提供していたのに対し、若いプロレタリア文学運動は、読売新聞にその突破口を見つけたのであった。これをいいかえれば、プロレタリア文学運動に火をつけたのは、読売新聞の文芸欄だったのである。

[中略]読売新聞に『第四階級の芸術』という新しい言葉が現われると、これが一つのきっかけとなって『第四階級の文学』または『労働文学』というものが、文壇の片すみに多望先鋭な映像を投げて来たのであった。[中略]関東大震災直前には、プロレタリア文学運動は、その第一期の発展期に入り、ついにブルジョアジャーナリズムは、競ってこの新文学に門戸を開放するようになった。これらの期間における日本の文壇は、すこぶる多事であったが、この時代に最も勇敢にプロレタリア文学のために、その舞台と機会を与えたものは、わが読売新聞であった。これは読売新聞の持つ、長い文学的伝統の一つの現われでもあったのである」

 もちろん、読売の文芸欄をプロレタリア文学一本槍で埋めつくしたわけではない。文学新聞としての読売の失地回復のために、「清新性こそが文芸復興の旗印だ」と主張し、いわば読売ルネッサンスを期して新人発掘の方針を掲げたのである。読売は、この方針の下に、無名の新人の作品を大胆に掲載していった。そのような新興文学の中心が、関東大震災の直前まではプロレタリア文学だったのだ。

 読売の文芸復興を支えた編集陣には、松山が招聘した「白虹事件」退社組もいた。だが、当時の読売には、松山経営の直前の印刷ゼネストや編集ストライキ計画を経験した記者たちも残っていた。その伝統の伏流水をも思い見る必要があるだろう。さすがに編集ストライキ計画の中心者たちの再雇用はなかったのだが、青野季吉は、プロレタリア文学の旗手として読売紙上でのカムバックを果たす。青野はこの時期に、秋田雨雀、村松正俊らとともにプロレタリア文学運動の機関誌『種蒔く人』を創刊していたのである。

 一九二〇年(大9)一〇月には、文芸部長の柴田勝衛が、「第四階級の芸術は可能か」という著名人のアンケートを求めた。

 一九二一年(大10)には、林房雄らが社会文芸研究会を結成した。平林初之輔は唯物史観にもとづくプロレタリア文学の理論、『第四階級の文学』を発表した。青野らの『種蒔く人』の創刊は、この年のことである。

 一九二二年(大11)元旦の読売は、新年特集として、有島武郎の「第四階級の芸術、其の芽生えと伸展を期す」を載せ、大論争をまきおこした。

 この年に読売の文芸欄に掲載された関係論文の主要なものは、つぎのとおりである。

 長谷川如是閑「第四階級の芸術」四回連載。
 平林初之輔「種蒔く人に望む」三回連載。
 宮島資夫「第四階級の文学」五回連載。
 青野季吉「知識人の現実批判」四回連載。
 前田河広一郎「本年文壇前半期の階級闘争批判」四回連載。
 安成二郎「社会文学とは何だ」、「文学に階級はない」
 本間久雄「本年の文芸評論壇、階級文学是非の帰結」

 この最後の本間の論文は、一年の論争全体を回顧するものであるが、そこでつぎのような重要な時代背景を反映する指摘が行われている。

「本年の前半は階級文芸の是非が論じられたが、後半は是非を越えて、階級文学を支える無産階級教化の問題へ移り、さらに来年の課題になった」

 この「無産階級教化の問題」は、すでに三年前の一九一九年(大8)にはじまる普通選挙運動と深い関係にあった。つまり、政治問題でもあった。(男子)普通選挙法は一九二五年(大14)に成立するが、大正デモクラシーの一つの重要な成果といっても良い性格を持っていた。読売の文芸欄に「その突破口を見つけた」と評されるプロレタリア文学運動には、そのような同時進行的な政治課題とむすびつく側面があったのである。

『読売新聞八十年史』では、この項の最後で、その後の変化について、「プロレタリア文学も、関東大震災による社会的変動に大打撃をうけ」たという、いかにも奇妙な表現をしている。「関東大震災による社会的変動」とは、いったい何かという問いを発する必要があるだろう。読売における「変動」は、松山経営の終了であった。真の原因は、天災ではなくて、人災にあった。社長が、松山から正力に交替したことによって、「若いプロレタリア文学運動は」、「その突破口を」失ったのである。

 松山自身については、これまた『読売新聞百年史』では欄外の小項目の扱いであるが、「松山忠二郎」という見出しの人物紹介がある。読売を去ったのち、「しばらく閑地にあったが昭和6[一九三一]年2月満州日報社長となり、9[一九三四]年2月まで在任」とある。結局、松山は、根っからの新聞人だったのだろう。思想の違いはどうあれ、「白虹事件」退社組の記者仲間を見捨てることはできずに多数採用した。読者の期待に応える紙面改善には積極的にならざるを得なかった。読者の多くも、また、大正デモクラシーを支えたインテリ層だったのだ。


(3-9)第二次護憲運動の山場で座長に推された読売社長の立場