『読売新聞・歴史検証』(2-5)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第二章 武家の商法による創業者時代の終り 5

首都東京で新聞がすべて発行停止の「世界でもまれな出来事」

『読売新聞八十年史』では、この時期の読売の社内状況を、つぎのように描いている。

「軍部から財政的援助をうけ、宣伝機関として動くようになると、文学新聞の看板が邪魔になり、この伝統をつぶそうとする傾向が、伊達主筆とその一派に強くなり、かくして伝統を守ろうとする社員との対立が、深刻になって来た。また、そのころは日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社内にも自然発生的にはいりこんできて、読売は、その最先端のようにみられた。

 伊達一派の軍国主義的な色彩が濃厚となり、伝統派を次第に圧迫して行くと、伝統派はこれに対抗して、ストライキ計画の運動を展開した。読売新聞の文化的伝統を擁護する建前と、軍国主義と戦うという趣旨からであったが、工場従業員の無政府主義的な黒色同盟の支持が得られないために、ストライキの計画は失敗に帰した。その運動の中心人物は、社会部の青野李吉と市川正一であったが、ストライキ失敗後、青野はプロ文学運動に、市川は共産主義運動に走った」

 ただし、この一見ドラマチックな要約的説明には、いくつかの間違い、および誤解を招きかねない記述の不十分さがある。

 第一に、最後の部分では、青野と市川が「ストライキ失敗後」、ただちに別方向に「走った」かのようになっているが、そんなに簡単な経過ではないことをのちにのべる。

 第二の方が重大な問題をはらむのだが、まず、青野が影響を受けた「印刷工のストライキ」については、なぜか、まったく無視している。つぎには、当時の読売の「工場従業員」の組織の名称と評価が、かなり不正確である。旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ』を執筆した当時には、「工場従業員の無政府主義的な黒色同盟」という不気味な記述の仕方が気になりながらも、そこまでの資料探索をしなかった。さいわいなことに旧著出版の翌年の一九八〇年、日本新聞労働組合連合の編集による『新聞労働運動の歴史』が発行された。

 そこには、一九二二年ごろの新聞印刷労働者の組織の「新聞工組合正進会」(「正進会」)、および一般印刷労働者の組織の「活版印刷工組合信友会」(「信友会」)について、つぎのような記述がある。

「そのころの労働組合運動は、いわゆるアナ対ボルの抗争を起こしていたが、そのなかで正進会は信友会とともに、アナーキストの大杉栄らの影響でアナルコ・サンジカリズム(無政府主義的労働組合主義)の傾向を強め、二二年九月に大阪でひらかれた労働組合総連合の創立大会で総同盟系の『中央集権的合同』に反対して『自由連合』を主張した」

 つまり、「無政府主義的」という評価は、一九二二年ごろに関するかぎり、一応の根拠がありそうだ。しかし、読売への伊達一派の乗りこみは、それより三年前の一九一九年のことである。その当時にストライキを闘った組織の名称は「正進会」ではなくて、「新聞印刷工組合革進会」(「革進会」)であった。

 その一方、「黒色同盟」という名称は、『新聞労働運動の歴史』のどこにもでてこない。『読売新聞百年史』の方にもないし、こちらでは「革進会」と「正進会」と記している。『読売新聞八十年史』執筆の中心は読売記者の高木健夫だったというから、「黒色同盟」は読売の社内で言い伝えられた通称、またはもしかすると、悪口に類する仇名だったのかもしれない。

 なお、『読売新聞八十年史』では「工場従業員」とし、『新聞労働運動の歴史』では「印刷労働者」としたり、「印刷工」としたり、「工員」としたりして、ともに当時の用語のみの使用を避けたがっている。いわゆる差別用語の感触があるからなのだろうか。本書では基本的に「印刷工」という用語を採用するが、その理由は単純であって、当時の当事者自身が使用していたからである。

『新聞労働運動の歴史』で「新聞史上最初の労働組合」と評価する「革進会」が結成されたのは、一九一九年(大8)六月一七日で、当初の会員は六一三人、在京の新聞「一六社印刷工約一六〇〇人のほぼ三八%が加入した」とある。会長に選任された横山勝太郎は「弁護士で憲政会代議士」であり、顧問に選任された加藤勘十は戦後の社会党代議士だが、当時は憲政会「院外団の扇動家」であった。「革進会の性格は、まだ階級闘争を目指すものではなく、[中略]彼らに政治的代弁を託すのが選任のねらいだった」という評価である。

 要求と闘争の具体例は、東京日日新聞の場合、「(1)最低給料二八円の八割増給、(2)八時間二部制・週休制の採用、(3)一五名の増員を要求して」おり、回答期限の前日に「サボタージュを決行、翌朝刊の一部を発行不能とし、給料六割増、週休と八時間制をかち取った」とある。

 経営者側は、従来からの協議機関「東京新聞協会」を招集した。「共同歩調を力説」する各社は対策機関「新聞連盟」を急設し、一二社が「罷業[ストライキ]の場合は共同休刊[同盟休刊ともいった]」するという盟約に仮調印した。革進会が「同盟罷業」の方針を決定すると、結果として一六社の全社が「同盟休刊」に参加した。

『新聞労働運動の歴史』には、つぎのように記されている。

「これによって、首都東京で新聞がまったく発行されないという、未曾有の事態が四日間つづくことになる。これは当時、世界的にもまれな出来事であった」

「同盟休刊の契約書」には、「違反社への違約金一〇万円や罷業工員の解雇が約定されていた。これにより、『毎夕』を除く各社のスト工員には、七月三一日夜解雇通知が速達で発送されていた」という。


(2-6)革進会の屈服と正進会の再建のはざまに編集ストライキ