『読売新聞・歴史検証』(2-6)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第二章 武家の商法による創業者時代の終り 6

革進会の屈服と正進会の再建のはざまに編集ストライキ

 争議の結果は、『新聞労働運動の歴史』によると、「各社別にあらためて採用者を決定し、賃金は各社ごとに生活保持に必要な額を増額する」といったもので、革進会側の「屈服」だという評価である。「各社の被解雇者は少数の活動家だけに止まった」とあるが、その人数は明確ではない。革進会自体は、その直後の九月二一日に解散したが、「一二月九日には『新聞工組合正進会』と名称をあらためて再建された」とある。再建後の正進会は、さらにねばりづよい闘いを展開している。

 以上のような経過から見ると、読売の編集ストライキ計画に印刷部門が呼応しなかった理由のひとつとして、印刷側の組織事情があったと考えられる。編集ストライキ計画が立てられたのは「秋」となっているが、その時期には、革進会が解散状態だったのである。

 だが、こうしたもろもろの事情があったからといって、編集ストライキ計画が、まったく孤立したものだったといえるのだろうか。すくなくとも権力側は、そうは見ていなかったはずである。火種が残っているかぎり、印刷部門にも、再び新たな爆発が起きると判断していたのではないだろうか。

 時の権力はすでにこの前年、のちにのべる「米騒動」報道と「白虹事件」という、これまた日本の新聞史上最大の危機を経験していた。しかも以下のように、「白虹事件」で収拾役を果たしたばかりの原敬首相(元大阪毎日社長)が、この革進会の同盟罷業の際にも動いていたことが確かなのだ。

『新聞労働運動の歴史』によれば、「調停」に至る経過には、つぎのように警視総監が「羽織・袴を着けて来場」するなど、実に、ものものしい状況があった。

「[一九一九年]八月一日朝、解雇通知を受けた革進会員六〇〇余人は豪雨のなかを日本橋の常盤木倶楽部に集まり、加藤顧問を議長に全員協議会をひらいた。事態収拾を横山会長と加藤顧問へ一任するとの提案がはかられたとき、警視総監岡喜八郎が羽織・袴を着けて来場し、発言を求めて、『おそれ多くも宸襟(しんきん)を悩まし奉り恐懼(く)にたえない。一刻も早く争議を円満に解決するよう一同の善処を望む』と述べた。かねて新聞争議を憂慮していた原首相が、その前日に警保局長川村竹治と岡総監をよび、『新聞社対職工の関係に過ぎざるも政府として捨置き難きには……穏かに職工に注意し又新聞社にも好意的態度を取りて調停を試むべし』(『原敬日記』第五巻、福村出版)と直接指示したためであった。事態収拾を満場一致で任された横山と加藤は、(1)明二日からの発行を条件に全員復職、(2)賃金は『時事』の要求(六五円)を基準にする、との二条件で岡総監に調停を要請した」

 新聞連盟の回答は、「連盟は革進会を認めず、横山氏を全権と認めない」という前提に立つものだった。みずから求めた調停の結果が、この前提条件の下における「屈服」であってみれば、敗北感は残る。革進会の解散は、やむをえない「一歩後退」だったのかもしれない。

 このストライキまたは「同盟罷業」の歴史に関しては、実に面白い発見があったのだが、その面白さを倍加するのは、それを記録していたのが、なんと、『読売新聞百二十年史』だったことである。

 この事件以後に読売の主筆となり、革命後のロシアに潜入して行方不明となる名物記者、大庭景秋は、『日本及日本人』(19・8・15)に、つぎのような痛烈な批判を記していた。

「紡績会社の同盟罷工[ストライキ]、炭坑の同盟罷工の場合には、さかんに罷業を正当とし、職工に同情をしながら、それがいったん新聞社に及んだ時に、手の裏をひるがえすように、にわかにいわゆる資本家態度を丸出しにしてはばかる所のないことは、それが天下の言論機関たる新聞紙が、人をあざむき、兼ねて己をあざむくものである」

 とにもかくにも、陸軍、または軍閥が、読売乗っ取りをあきらめるにいたったのは、このような状況下のことであった。


(2-7)財閥による買収、全員解雇、「離散」の人間ドラマ