『読売新聞・歴史検証』(2-4)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第二章 武家の商法による創業者時代の終り 4

ストライキを構えて「軍閥」を追い払った読売現場の抵抗

 陸軍による読売乗っ取りは、いったん阻止された。だが、それを阻止した力は、いったい何だったのだろうか。

 その底辺にはまず、明治以来の読売の歴史を支えてきた現場の、新聞人としての心意気があったのではないだろうか。当時の読売社内で展開された人間ドラマの一端を、渦中にあった上司小剣や青野季吉らの描写からうかがってみよう。なお、フィクションが情報源に加わるせいもあってか、各種資料に記された人物の肩書きに多少の食い違いがあるが、状況全体の理解に支障はない。

『U新聞社年代記』で、伊達源一郎の登場と、その後の経過について描く上司の皮肉な筆さばきは、一段とさえわたっている。上司はまず、みずからが受けた新人事の影響を描く。

「伊達源一郎という好箇のゼントルマンが編集局長として入社するに及び、作者[上司]の編集長代理は解かれて、相談役となった」

 この「好箇のゼントルマン」とか、このあとの引用にも出てくる「温和な好紳士」とか「好紳士」などという表現は、一見、青野の「小肥りの脂ぎった男」といった描写とは矛盾するように思えるであろう。だがここにも、上司の用語としては目一杯の皮肉がこもっているのである。つまり、「紳士」とは、文筆の何たるかをまったく解さない「俗物」の意にほかならない。上司自身も、この俗物の登場と同時に、いまでいう「窓際左遷」の目に会っているのだ。つぎのような『読売新聞百年史』の記述の仕方は、現在の読売自体ですらが、伊達を俗物視していることを物語っている。

「たとえば、伊達主筆は、読売新聞が文学新聞のように世間から思われているのはケシカランという。では、これから軍事小説でも載せますかね、と上司編集長。それそれその軍事小説に限る、外へ頼まんで君一つ皮切りにやってくれ、と伊達はまともに受ける。皮肉屋の上司が、いっそ小説なんてよしたらどうです――と、これでどうやら軍事小説は実現しないですんだ、と青野は書いている」

 社内情勢の展開と、それにたいする上司自身の個人的心境は、つぎのようであった。

「伊達編集局長は温和な好紳士だが、前に関係した○○[国民]新聞から連れて来た二、三人中に事を好むものがあり、U新聞は創立以来、初めて編集部内に二派対立を見るようなことになった。作者はもちろん、そのいずれにも偏せず、冷然として機会あれば罷めたいと希っていた」

 このあたりの上司の描写の仕方は、まさに、さきに紹介した青野の人物評の通りである。上司には、「いつも洗練された皮肉と、直截な観察で、人々を一段と高いところから見下している風」があるのだ。しかし、つぎの経過に見られるように、上司は、決して「冷然」としていたばかりではない。

「さて、U社編集局内部的訌争はいよいよ劇しく、その中心と見るべき新社会部長が、部下の青野季吉、市川正一等五名を馘首した。いづれも作者の編集長代理時代に入社した比較的古参の俊秀である。義侠心に充ちた外務係の奥野が憤然として抗議したが駄目。結局奥野も辞職とまで突き詰まった。奥野は作者に相談した。作者もちょっと義侠心めいたものを起こし、それにこれは退社の好機会だと思って、奥野につづいて辞職を申し出た。スルと作者の辞職は許されないで、これはまたどうしたことか、一旦馘首した青野、市川等の五人が忽ち復社してきた。

 青野(作者に向い)『妙なことになって、戻って来ましたよ』

 市川(同じく)『ところが、なんにも用がないんで、こうして遊んでいるんです』

 と、にやにや笑っている。全く妙なことになったもんだ。作者の辞職申出が、そんなに力があろうとは思わなかった。何にしても好紳士の伊達が気の毒である。直系部下の小細工に因るとはいえ、馘首も復職も皆この人の責任で行われたのだ。不面目な事である」

 上司が描く「U社編集局内部的訌争」の底辺には、編集部門のストライキ計画があった。ストライキ自体は、一部の裏切りの発生によって参加者リストが伊達の手に渡ったり、印刷部門に様子見の雰囲気があったりしたため、強力な切り崩しを受けて失敗した。しかし、論説委員で「外務係」、最近の役職でいえば外信局長クラスに当たり、さきにも紹介したように本野一郎の「私設秘書役」でもあった奥野と、前編集長代理の上司という二人の生え抜きの実力者が、辞職を決意するまでの同調ぶりを示したわけである。

『読売新聞百年史』の方では、この経過を「上司や論説担当の奥野七郎らのとりなしで青野と市川は閉門の刑を受けた」と記している。上司と奥野の「辞職申出」は、結果として「とりなし」の取り引き材料の役を果たしたといえるのではないだろうか。

『読売新聞百年史』はさらに、『文芸』(55・11)誌上での青野自身の戦後の談話から、つぎのような引用をしている。文中の『 』内は、当時の会社側の発言である。

「『月給はやるから社へ来るな』――争議は負けだ。何もしないで金をもらうのはいやだ。何か仕事をする――『社へ来るのは困る』――一定の時間だけ行って一定の仕事をして帰る――『それならいい。だが、二階の編集室へ行っちゃいかん。三階へ来い。それも一日おきくらいに来い』――それで何をするんだ――『外国の新聞雑誌を読んで、新聞記事になる原稿を出せ。載せる載せないは別だ』――それでは嫌だ。必ず載っけろ。ぼくらはつまらないものを記事なんかにしないから載せるべきだ――『じゃ、君たちのために欄を設けてやる。何でもいいから紹介記事を書け。君たちの意見はいかん』」

 さらにこの間の経過を『読売新聞百年史』は、つぎのようにまとめている。

「“閉門の刑”で結末をつけた争議は一見文化主義派の負けのように見えたが、軍閥を背景とする伊達一派にも読売制圧のむずかしさを知らしめて、財政援助という名の体のいい読売買収計画は一応挫折した」

 たしかにストライキそのものは不発に終わったようだが、結果として、陸軍もしくは右翼による読売乗っ取りも決して成功はしなかった。だが、以上のような読売の社内事情だけで、乗っ取り失敗の原因の十分な説明になるだろうか。陸軍を先頭とする勢力が読売乗っ取りをあきらめた背景には、さらに深い事情がひそんでいたのではないだろうか。

 社内的な背景にはまず、編集部門に呼応する可能性を秘めた印刷部門の組織があった。読売で編集部門と印刷部門の共闘関係が成立した場合には、さらにその闘いが首都東京ばかりではなく、全国的に燃え広がる可能性さえあった。すくなくとも体制側は、その危機を感じ取っていたはずである。

 まずはその状況を、渦中にあった青野自身の筆になる『サラリーマン恐怖時代』(先進社)からうかがってみよう。青野は、そのころの生活状態を、つぎのように記している。

「当時の月給二三円は、既に妻帯していた私にとって、かろうじて米塩の資たるにとどまっていた。東京の郊外に、たった二間切りの貸家を借りて、一日約一〇時間を社に勤めて、帰って来れば貧しい晩餐と、一日の頭脳的、肉体的の疲労があるばかりである。しかもこれが、この社会が私に与えてくれた唯一の『生きる場所』だったのである」

 かれはまた、みずからのサラリーマンとしての『漠然とした開眼』への三つの事件をあげている。

 その第一は、読売創立以来といわれる老校正係の突然の死であった。肺をわずらい、新聞社の塵埃と喧騒のなかで死んだ老人の遺族にたいして、会社がしたことは、半年分の月給を支払い、遺児を給仕に採用することだけだった。第二は、東京の新聞のほとんどを数日間発行停止にした印刷工のストライキだった。そして第三が、みずからも職を賭してたたかうことになる編集ストライキ、もしくは、その闘争の原因となる軍閥の乗り込みであった。

 ここでもっとも重要な問題は、「編集ストライキ」の計画以前に、「印刷工のストライキ」があり、「東京の新聞のほとんどを数日間発行停止にした」という経過である。

『一九一九年』にも、編集と印刷現場の協力関係について、生々しい体験が記されている。印刷工の組織の方には、その年の八月のクビキリまで出たストライキに編集が協力せず、むしろ、スト破りに走ったことへのしこりがあったらしい。また、市川や青野らが計画していた編集ストライキには「軍閥反対」の色彩が強く、待遇改善は二の次というイチかバチか的な要素があったため、様子を見る感じもあったようだ。

 もちろん、印刷工の方の組織にしても、「軍閥」の専横を憎む気持ちには変わりはなかった。市川らの協力要請を受けてのち、いろいろと激励している。『一九一九年』には、つぎのような場面が描かれている。

「いちばん年嵩の石見は、骨張った顔に人のよい微笑をたたえて、そこらにいる記者達をいたわるようにいった。

『いよいよおっ始めたら、ぐずぐずしてちゃだめですぜ。主筆に辞職を迫るなら迫るで、出ようによっては、相手と刺しちがえるくらいの覚悟がなくちゃ。[中略]まったく伊井[伊達]さんの遣り方は、無茶だなあ。母の看病に国へ帰っているものを追討にするなんて、工場だったら、それだけでみんなが承知しやしませんよ』」

 どうやら、仲間の記者が一人、「母の看病に国へ帰っている」間に解雇されたらしいのである。


(2-5)首都東京で新聞がすべて発行停止の「世界でもまれな出来事」