第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1
第二章 武家の商法による創業者時代の終り 3
陸軍が機密費付きで右翼紙『国民新聞』から主筆を送り込む
海軍がらみの買収話はこわれたが、つぎには陸軍が乗り出してきた。今度は話だけでは終わらずに、紙面にも具体的な影響が表われた。
わたしはこの時期の海軍や陸軍による乗っとり工作を、のちの警察官僚、正力松太郎乗りこみに先立つ前奏曲の一つとして位置づける。実力派の海軍、陸軍にひきつづき、ひと呼吸置いたあとに、全国の警察組織を配下とする最高官庁の内務省勢力による首都東京の名門紙乗っとり工作が行われたのである。これはまさに、日本のメディアの歴史を画する容易ならぬ決定的重大事態だったというべきであろう。
『読売新聞百年史』には陸軍乗りこみの事情が、つぎのように遠慮がちに記されている。
「経済的テコ入れをして世論操縦に本社を利用しようとする陸軍、本野家の財政だけでは支えきれなくなった本社の窮乏ゆえに、軍の援助を受け入れようと模索する一郎」
この点では、『読売新聞八十年史』の方が、さらに具体的な記述になっている。
「この時、シベリアの事態はいよいよ切迫し、軍部はどうしても新聞世論を出兵賛成にもっていく必要に迫られて、各新聞社に対し積極的に働きかけてきた。経営不如意の読売も、その例外ではあり得ず、前社主本野外相は社の財政状態を知っており、また、閣内における出兵論の主張者として、これを拒む理由もなかった。すなわち、軍部の背後勢力が、その宣伝機関として読売を利用しようとし、陸軍の機密費を注ぎ込んでいるとうわさされたのは、必ずしもうわさだけではなかった。かくて軍部の触角は読売社内にまで及び、社説や編集が、ともすれば精彩を欠くようになった。出兵自重論から『シベリア出兵は得策なり』の社説に急変し、さらに『出兵の得失及び緩急』と題して、『一日も早く出兵すべし』と主張するにいたったのである」
陸軍は機密費を出しただけではなかった。
主筆には、国民新聞で編集長をしていた伊達源一郎が就任した。国民新聞には右翼紙としての定評があった。社長の徳富素峰は、のちに大日本言論報国会の会長となり、戦争犯罪人に指名されるという経歴の、もっとも代表的な右翼言論人である。日露戦争の開戦以前から対ロシア主戦論の急先鋒だったし、『読売新聞八十年史』によれば、読売の論調変化に関しては自社の紙面で、「[シベリア]出兵に和して痛快な論説を展開し、『外相たる本野子爵のごときは、あたかも素見に合し、すこぶる共鳴するところ』と述べ」ていた。読売内部のシベリア出兵促進論者への励ましのエールである。
伊達は、その上に、陸軍大将田中義一が操縦していた帝国青年会の幹事でもあった。伊達は国民新聞から子飼いの記者を何人か引き連れてきたが、そのなかには軍部関係者もいた。
『読売新聞百年史』でも伊達主筆が果たした役割について、つぎのように記している。
「伊達が主筆となると、秋月のそれまでの苦衷などどこ吹く風と、シベリア出兵論は調子を高めていく。それは八月二日のシベリア出兵宣言に合わせるごとくに、である。[中略]
秋月も伊達が主筆になってからは、得意の筆も意欲を失い、シベリア問題も米問題も、その論壇発言は精彩を欠く。[中略]社長就任からちょうど一年、一二月になって間もなく風邪をこじらせて肺炎となり、大磯に引きこもった」
引用文中の秋月は英吉郎に代わった社長だが、根っからの文人で経営能力には弱点があった。『読売新聞百年史』では、こう記している。
「そのころの読売の経営状態は、ますます難渋を加え、窮迫の一歩手前ともいうべき状態であった。部数は公称五万部であったが、実数は三万部台に落ちていたのである。社長秋月は論壇に立てこもって、新聞の経営面は理事石黒景文に一任して顧みなかったから、財政の窮乏はひしひしと迫り、社員の月給の一部払いが続くようになった」
この状況につけこんで、陸軍とその背後勢力は、本気で読売の経営乗っ取りを策していた。
青野の『一九一九年』にも、当然、伊達が登場してくる。作中人物の伊井である。
「新主筆の伊井[伊達]は、小肥りの脂ぎった男で、始終ものにおびえてでもいるかのように、体を小刻みに動かして、キョトキョトしていた」
経済部長、政治部長、社会部長、すべての重要ポストが伊達の配下に握られた。
「そのほか毎日のように、編集室に新しい記者が現われたが、その新しい記者たちは、あたかも占領地に乗り込むような、得意さと、横柄さとを平気で振りまいていた。
義一[青野]は、毎日のように新しい記者を紹介されても、その人物そのものには、ほとんど無関心であったが、ただ一度、胸を衝きあげるような不快さを覚えた事があった。『春野さん』と伊井[伊達]主筆はなれなれしい声で、愛嬌笑いをしながら、机につっぷして仕事をしている義一の肩を軽くたたいていった。
『こんど入った小竹君です』
義一は、顔をあげた瞬間、思わず眼を見張った。小竹というのは陸軍のスパイとして早い頃から朝鮮の僻地で活動していた人間で、朝鮮の若い人達の間に何かの『運動』の計画があると、それに積極的に参加して、結局はその『不逞鮮人』を根こそぎサーベルと鎖の下へ引渡す、プロボケーターの役目を演じていた。かの『万歳』運動の時など、小竹の活躍はすばらしいものであったといわれた」
当時の日本で「万歳」運動と呼ばれたのは、現在の南北朝鮮でともに最大の反日独立運動として記念されている「三・一朝鮮独立運動」のことである。
一九一九年(大8)三月一日、ソウル、平壌などの主要都市で正午から一斉に、集会で独立宣言を朗読したのち、日本による併合以前の大韓帝国時代の太韓旗を振りながら「独立万歳」を高唱する街頭デモ行進が行われた。三月中旬には、朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。日本の警察、憲兵、正規軍は総掛かりで鎮圧に当たった。諸資料の数字には若干の相違があるが、運動全体の参加者は約二〇〇万人、死者約七〇〇〇人、負傷者約一万六〇〇〇人、逮捕者約四万七〇〇〇人、内起訴約一万人などと推計されている。
小竹という作中人物については、本当に実物が存在したのかどうかについて、ほかに資料が見当たらないので、確言はできない。「三・一朝鮮独立運動」の中にまで潜りこんで挑発者の役割を果たした人物が、当時の読売に入社していたというのが事実であれば、まさに「事実は小説よりも奇なり」の典型ではないだろうか。
しかも、読売を取り巻く内外情勢は、さらに一触即発の危機をはらんでいた。
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