第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9
第十二章 敗戦後の「ケイレツ」生き残り戦略 3
「社長……」と嗚咽しつつ、今度は米軍に妥協した戦後史
話を「大新聞」の戦争責任に戻すと、秦と緒方が一致して認めているのは、「大新聞」が生き延びるために「妥協」したということである。その「妥協」の習性は、しかも、緒方の弁明を突き詰めると、最早、当時ですら、決定的に癒しがたい基本的体質だったのである。
そのことを十分に承知していたはずの「賢明なる」大新聞記者たちが、なぜまた戦後に再び、その大新聞の解散を主張せず、逆に、その存続のために言葉の上だけで「自らを罪」し、かつ「国民とともに起たん」と語ったのか、いや、結果としてにせよ無知な読者を「諞(かた)って」しまったのか。そして、今に至るも、本格的な責任を取ろうとしていないのか。言葉はきついが、ここに、これまでの戦後新聞論でまったく無視、ないしは軽視されてきた問題点が潜んでいる。
まず第一に、記者は、同時に「社員」でもあった。すでに指摘したように「たったの四年後」には、占領軍の命令をむしろ願ってもない奇貨として、大新聞経営者たちはレッドパージに協力した。その際、大多数の大手メディアの社員たちは沈黙し、妥協し、服従し、あるいは敵前逃亡している。
戦後の未熟な労働組合や政党の活動にも、かなりの問題点があったに違いない。いわゆる左翼の指導者のなかにも鼻持ちならない権力主義者が多いことは、今に始まったことではない。わたし自身も、労働組合などで、さまざまの役職を経験している。失敗も欠陥も多々ある自分自身をもサンプルとして、わが「裸のサル」の権力志向の本能の衝突を、つぶさに観察してきた。「ホモ・サピエンス」を自称する「裸のサル」にとって、我執の衝突は避けがたい宿命なのかもしれない。結局のところ、皆が皆、わが身の安全確保が第一番になってくるものだ。最後の選択は、現実との妥協である。「白虹事件」の渦中にあった中西記者が、「世の中のことはすべていざという時には、こんなものか」という想いが「ピシと頭に入った」と語っているのは、この意味である。今後のためにも、この集団的な妥協の習性を軽視してはならない。二度あることは三度あるのである。
第二の論点の方が、実は、さらに重大である。
大新聞の記者であったればこそ、かれらは、日本の降伏に先立つこと三か月前のドイツの降伏の結果、ドイツでは、すべての既存のメディアが廃止されていたことを、十分に承知していた。わたしはここで、「はずだ」という表現を、あえて使わない。わたしの知るかぎりでは、これまでに発表された新聞の戦後史のなかで、この極秘情報にふれて「反省」の経過を論じた例はない。自社の生死にかかわる重要情報が無視されるわけはないのだが、それを無視したままの、きれいごとの戦後史が語られ続けてきたのである。
確実な情報源は外国の短波放送であった。これまでにも関係者にはよく知られていた事実だが、ごく最近の報道例を紹介しよう。
「実は新聞社の多くは、外国の短波放送を傍受していた。傍受はもちろん、違法行為だった」と記すのは、毎日の「新聞と戦争」シリーズの51回(95・9・24)である。
「毎日はこれを『便所通信』と呼んだ。傍受室が女子トイレを改造したものだったからである。[中略]受信機は七台、八人のスタッフが交代で、英、仏、独、ソ連、トルコ、オーストリア、中国などのラジオ放送を聴取していた。[中略]重要な情報は幹部に上げられた」
『読売新聞百年史』にも、短波放送傍受の話は出てくるが、大同小異なので割愛する。
この他にも、中立国だったポルトガルの首都リスボンには、日本の各大手メディアの駐在員が残っていた。リスボン情報は、さまざまなルートで日本に送られていた。一般読者、または一般国民が知らないだけの話で、新聞社の幹部や、そこから「ご注進」の情報を獲得する日本の支配層は、枢軸国の仲間だったイタリアやドイツで起きた状況の報告を毎日のように受けとり、分析し、日本の敗戦に際に備えて対策を練っていた。一番重要だったのはもちろんのこと、「国体護持」の条件だった。それが新聞社の段階では「自社維持」の条件だったのである。
とりわけ決定的な判断材料となる情報は、もう一度、念のためにいうが、「三か月前のドイツの降伏の結果、ドイツでは、すべての既存のメディアが廃止された」ことであった。
では、当時の日本で、この処置を回避するためには、いかなる手段が必要だったのであろうか。
日本の支配層、および新聞社幹部、記者たちは、連合軍の中心がアメリカであり、そのアメリカは資本主義国で、民主主義を看板にしながらも反共だということを十分に承知していた。占領軍の支配下では、素早く「親米」かつ「民主主義」の看板を掲げ、状況によれば「反共」の旗ふりも辞さない。もちろん、そこまでの完全な合意が社内で成熟していたというつもりはない。相手のアメリカ様の腹が、底の底まで読めるわけはない。ある程度までは出たとこ勝負の覚悟が必要だったであろう。
昭和天皇裕仁が、「象徴」だとか「戦争放棄」だとかを素早く了承し、あまつさえ「沖縄を二五年か五〇年占領してくれ」とまでマッカーサーに頼んだのは、決して個人的な思いつきではあり得ない。重臣たちとの相談ずくの「国体護持」条件であった。それと同様に、暗黙の了解、阿吽(あうん)の呼吸をもふくみながら、新聞各社の「自社維持」条件が準備されるに至ったと見るべきであろう。
「民主化」は、やむをえない条件であった。新聞社の幹部ともなれば、国際的な動向は百も承知の上だったのである。別の表現をすれば、いわゆる「許容範囲」の要求であった。
この状況をもっとも端的に示すのは、「民主化」闘争が二度の解雇争議にまで発展した読売の場合である。正力への退職要求を決定した社員大会の代表、鈴木東民ら五名は逆に退社を命じられた。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長および組合長に選出された。
争議が始まり、「生産管理闘争」という戦術が採用された。正力は、争議に突入した最高闘争委員会の内、鈴木と、闘争委員だが解雇組ではない志賀重義、鴇(とき)沢幸治の三人を指名して会談する。正力が示した解決私案には、「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」とあった。即時退職は絶対条件だったから、三人とも同意できない。『反骨/鈴木東民の生涯』によれば、この時に、もっとも戦闘的な鈴木でさえも、正力私案を拒否しつつ、つぎのように発言している。
「要は進駐軍の統治下で、読売新聞をどう維持してゆくかにある。われわれの考えでは読売が旧体制を持続するかぎり、何らかの重圧が進駐軍司令部から加えられるものと思われる。従ってこの難局を切り抜けるため、一応社長が引退の形式をとる必要があると思う」
鈴木の発言には、とにもかくにも正力の退職を実現すれば、という戦術的なニュアンスがあったのかもしれない。闘争委員の鴇沢には、戦争中に企画局航空部長として軍に協力した過去もある。もっとも妥協的な立場だったようであるが、つぎのように正力に訴えて、最後には「嗚咽(おえつ)」している。
「このようなことを社長に申すのは情において忍びませんが、読売新聞を可愛いと思うなら、この際、引退してしばらく辛抱して下さい。そのうち必ず復活のときがきます。いまは大きな変動のときです。[中略]このところを理解してくれませんか、社長……」
正力は、素早く、このような闘争委員会側、または社員側の弱腰を見抜いたのではないだろうか。同書によれば、正力は、鴇沢の「嗚咽」を聞いたのち、「気をとり直したのか、いつもの調子にもどった」のであり、つぎのように宣言して会談を決裂させたのである。
「戦争に敗けたために日本の資本主義制度は崩れかけている。労働者を増長させておいては、資本家が滅びてしまう。おれは日本の資本家を守るため、あくまで闘うつもりだ」
正力らは、粘れるだけ粘り、最後には主導権を握り直した。大新聞各社の「民主化」の根底には、このような基本的条件が共通して横たわっていたに相違ない。
戦後日本のいわゆる「民主的改革」のなかには、この種の実例が多い。新聞と隣接する放送については、敗戦の翌年の一九四六年に「放送委員会」が発足した。「放送行政全般を管掌」するというのが設立の趣旨だったが、新会長推薦のほかには何の業績ものこさずに消滅してしまった。関係者の評価は微妙に分かれているが、「旧協会独占方式を生き残らせるために適当に利用された」とする憲法学者、奥平康弘による『戦後改革』(3)「政治過程」所収の論文「放送法制の再編成/その準備過程」の指摘が、もっとも核心を突いているようだ。アメリカ政府は、かなり以前から、日本支配の方式を研究していたのである。マッカーサーのGHQには、メディア対策の専門家がいたし、日本側からのご機嫌伺いも常時行われていたのである。
先頭に立った「戦後民主化」闘争の元闘士たちは、わたしの結論には不満であろう。だが、結果を見れば明らかなように、新聞各社とNHKの「自社維持」が成就し、日米同盟の下地が固まった途端に、「民主化」は中止され、レッド・パージという「走狗煮らる」の状況が生まれたのである。
(12-4)レッド・パージに先駆けた読売争議で三七名の解雇と退社 へ