第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9
第十二章 敗戦後の「ケイレツ」生き残り戦略 4
レッド・パージに先駆けた読売争議で三七名の解雇と退社
読売の場合には、正力独裁の通称「正力商店」だったから、下相談も、暗黙の了解も、阿吽の呼吸による合意の形成も、すべて実らなかった。
読売争議の経過については、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、一九七九)で、それまでに入手できた資料をもとに簡略にまとめてみた。ところが、その後、すでに一六年が経過した。それ以前の出版も含めると、社史以外の主要な単行本だけでも、列挙すると、つぎのような状況となっている。
(1)『戦後危機における労働争議/読売争議』(東京大学社会科学研究所、一九七二)
(2)『読売争議/ 1945-1946』(増田太助、亜紀書房、一九七六)
(3)『読売争議/一九四五・一九四六』(山本潔、御茶の水書房、一九七八)
(4)『レッド・パージ』(梶谷善久編著、図書出版社、一九八〇)
(5)『戦後マスコミ回遊記』(柴田秀利、中央公論社、一九八五)
(6)『反骨/鈴木東民の生涯』(鎌田慧、講談社、一九八九)
(7)『回想の読売争議/あるジャーナリストの人生』(宮本太郎、新日本出版社、一九九四)
以上の単行本の著者の立場は、様々に相違している。当然、内容にも主張にも相違がある。ある場合には、真反対である。
(1)と(3)は同一人物によるもので、(2)を基本資料にしている。つまり、(1)(2)(3)の内容には共通性がある。山本潔は、すでに本書でも記したが、研究者である。増田太助は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。争議中から日本共産党に所属し、その後、日本共産党東京都委員会委員長となるが、(7)の表現によれば、「反党活動」で「除名処分」になっている。
(4)の編著者、梶谷善久は、朝日の社員で通称「第三組合」の全朝日労組委員長だった。レッド・パージ組では、梶谷と、同書第四章「朝日新聞」の執筆者で、おなじく全朝日労組書記長だった小原正男の二人だけが、裁判闘争勝利、および職場復帰の経験者である。勝訴の基本的理由は、「共産党員ではない」ことの立証にあった。同書第六章「読売新聞」の執筆者、滝沢正樹は、読売から解雇されて闘い、和解で依願退社した経験の持ち主であるが、第一次および第二次の読売争議の経験者ではない。
(5)の柴田秀利は、読売で最初から労組に加盟せず、務台光雄、正力松太郎、吉田茂、GHQなどと連絡を取って動いた。本人の記すところによれば、電車のなかで「代々木党本部の部長格」の元報知記者を「首魁」とする元読売争議団のメンバーから、「大声で」罵倒され、殴る、蹴る、はなはだしくは「下顎へ来る靴蹴り」の目に会った。
(6)の著者、鎌田慧は、作家であり、鈴木東民とは同郷の関係にある。鈴木については、すでに何度も記したが、最高闘争委員会委員長および読売従業員組合の組合長として、第一次争議の中心となり、その後、新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長になる。二度目の解雇の際には、第二次争議団の幹部から外され、和解、退職した。その間、一時、日本共産党に所属したが、参議院選挙で当選の可能性のない地方区候補を回され、離党し、無所属で釜石市長になった。
(7)の宮本太郎は、争議以前から日本共産党に所属し、回想談の当時も現在も日本共産党の中央委員である。
以上のような相異なる立場の著者、または主人公の、それぞれの経過説明と主張のすべてを吟味するには、長時間の推敲と大幅な紙数が必要である。稿を改めるしかない。とりあえず本書では、以下、簡単に争議の経過を要約紹介するにとどめる。
読売の場合、他社とは事情が違った。正力は、自分が身を引けば、それで終りだと感じていたに違いない。局長以上の総退陣を要求する社員大会に対抗して、正力は逆に居直り、中心になった記者五名の解雇を申し渡したのである。
この五名解雇が第一次争議の発端であるが、その途中で正力がA級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決ったため、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長」とするなどの交換条件で解雇も撤回され、いったんは収まった。ここまでは、解雇後に急遽結成された従業員組合と支援労組側の一応の勝利である。勢いを駆った各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(新聞通信単一)という個人加盟の産業別単一組織を結成し、各企業にはその支部を結成するに至った。
第二次争議の発端は、GHQ新聞課長バーコフ少佐によるプレスコード拡大解釈であるが、すでにアメリカの日本占領政策には決定的な変化が生じつつあった。
極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それと呼応した馬場社長らは、「GHQの意志」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下六名に退社を求めた。組合側がストライキで抗議し、職場を守ろうとすると、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力による読売乗っ取りを策した。組合がさらに抵抗して社屋を防衛すると、務台らは警察の出動を要請した。警察が動かないと見るとGHQにMPの出動を依頼し、それであわてた丸の内署が、こん棒とピストルで武装した約五百名の警官隊を読売新聞社に入れ、スクラムを組んで輪転機を守る現場労働者を、殴る、蹴る、血だらけにして排除した。組合側は「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と記している。
以後約四ヵ月、ロックアウトされた争議団四百余名は読売の社外で闘ったが、政治情勢は逆風に向かっていた。新聞通信労組がストライキをかけて取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部合計で三七名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈伏を強いられた。復職者は、すでに社内で組織されていた御用組織、「新」従業員組合への「統一」を強要された。以後、読売の「新」従業員組合の活動は、ほとんど会社側に押えられつづけとなる。争議解決の翌年には、二・一ゼネストのマッカーサー指令による中止という全国的な敗北が待ち受けていた。
他の新聞通信単一企業支部も一九四九年から一九五〇年にかけてのレッド・パージ前後に四分五裂し、再び企業別従業員組合に戻ってしまった。新聞通信へのレッド・パージは合計で七〇四名、他産業の平均解雇率〇・三八%を大幅に上回る二・三五%であり、最も解雇率が高かった。おもなところは、NHK一一九名、朝日一〇四名、毎日四九名、中国三六名、共同三五名、北海道三五名、読売三四名というのが公式発表であるが、読売の場合は第二次争議での退社三七名を加えると計七一名が職場から排除されたことになる。
読売争議、一〇月闘争、二・一ゼネスト、レッド・パージという、相次ぐ戦後労働運動史の敗北の根底には、主体的力量の不足に加えて、米占領軍にたいする日本共産党の「解放軍規定」などの誤りの影響があった。マッカーサーはすでに、日本に進駐する以前のフィリピンで、ソ連につながる抗日ゲリラ集団の抹殺を開始していた。ソ連またはコミンフォルムは、その事実にもとづく警告を、日本共産党に対して発していなかった。レッド・パージ以後に後追いで発した「解放軍規定」批判は、日本共産党を分裂させる程の混乱を招いた。
以上に略記したような戦後読売争議の経過は、正力自身の我執の強さもさることながら、正力とその腹心たちの階級的性格を知らずには理解しがたいものである。正力自身が、他の退陣した「新聞人出身」の新聞社社長たちと自分は違うということを、広言しているほどだった。正力は、敗戦にともなう左翼の「暴動」を予期していた。『読売争議(一九四五・四六年)』で引用されている本人の手紙の文句によれば、「これを鎮圧出来るのは警察出身の俺しかいない」と考えていた。正力は決して、新聞人でも言論人でも文化人でもなかった。いざとなれば正体を現わして暴力を振るう側にいた。読売乗りこみ当日に「帰れ帰れ」と連呼された「ポリ公」稼業から足を洗う気は、さらさらなかったのである。事実、本人自身が死ぬまで、警視庁OBの黒幕として振る舞っていた。
A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容された正力は、わずか一年八ヵ月のちの一九四七年(昭22)八月に釈放された。当分は他の主要新聞経営者たちと一緒に公職追放の身であったが、読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つも経営した。
この間、『読売新聞百年史』で「名実ともに」とか「完全な独立」などと、押しつけがましく記す事態が経過した。読売は社是として、問題の「単独講和」推進の論調を張り続けたのであった。現在の憲法改正案問題とも共通する読売の本性の表われである。
同時期に正力は、テレヴィをやるから追放を解除せよとアメリカに向けて要請し、日本テレビ放送網の初代社長、のち会長となった。マスメディアの集中支配を排除するための放送法上の兼任禁止の建前もあって、読売新聞社では社長に戻らず、かといって別の社長を任命もせず、社主になった。
実際には、双方でのワンマン支配には何らの変化もなかったから、この時すでに、放送法の「集中支配排除」の建前は、元内務省・警察高級官僚の「汚い靴」で、足蹴にされていたのである。
第十三章「独裁主義」の継承者たち
(13-1)「ワンマン正力」の後継者決定の七か月の骨肉の争い へ