第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9
第十一章 侵略戦争へと軍部を挑発した新聞の責任 2
戦時体制で焼け太りした読売の不動産取得「脅迫」戦略
『別冊東洋経済新報』(52・3)所収記事「日本の内幕」によると、正力は、旧読売の専売店地方組織「読売七日会」が巣鴨プリズンからの出所を祝って箱根で開いた歓迎会の席上で、つぎのような迷文句の自慢話をした。
「新聞ほどもうかる事業は、世の中に二つとない、戦争中といえども、公定価格でもうかったのは、新聞だけであった」
事実、読売はとくに、昭和の戦時体制の下で大躍進をとげた。一九三八年(昭13)から始まる新聞統合の時期には、新聞用紙制限令によって一県一紙化を強制した国策以後、業界全体が、「表2」のような急激に変化した。
表2『現代の新聞』より
読売は、朝日と毎日と並んで、三大中央紙の独占的地位を固めただけでなく、さらには九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を、次々に傘下に収めた。一九四一年(昭16)の日米開戦直前には、かつての名門紙ながら赤字転落中の報知を安値で買収するのに成功した。
その間、正力が冷や汗三斗の場面もあったようだ。正力のバックは何といっても内務省である。内務省と陸軍省の間には縄張り争いが絶えなかった。戦時体制の強化に正比例して、陸軍省の報道担当の権限は強まっていた。『現代新聞批判』(40・9・15)の「新聞界“時の人”/正力松太郎(一)」と題する記事の冒頭部分は、つぎのようになっていた。
「新体制準備委員の言論代表は、同盟古野、朝日緒方、東日高石、読売正力の四人ときまった[中略]が、読売の近来の発展からして当然ではあろうけれども、発表された刹那には一寸意外な感がしないでもなかった。[中略]
陸軍省の記者クラブが問題を起こしたことがあった。その時係の役人が『新聞なんか東京に二つもあれば十分じゃないか』といったそうであるが、その時正力氏はこれを聞いて、すこぶる慌てたということである。もし東京に三つもあれば……といったとすれば、彼は慌てなかったに相違ないが、二つとすれば、それが朝日と東日[毎日系]であるにきまっている」
この状況下での報知の買収は、当時の新聞用紙制限令による用紙の割り当て数、三〇万部の権利取得を含んでいた。務台光雄はそのとき正力から、かつての古巣だった報知の経営実権を任された。
『別冊新聞研究』(13号、81・10)の「聴きとり」で務台は、つぎのように語っている。
「昭和十六年ですから、紙は割当制で、その権利だけでも大したものです」
買収の経過は非常に複雑なのだが、ごく簡単にいうと、当時の報知の持ち主は講談社の野間清治だった。社長は、戦後日本の保守陣営の政界黒幕として悪名をとどろかせた三木武吉で、正力と旧知の臭い仲だった。業績悪化につけこんだ読売は、社長の三木なら株を安く買い占められると計算して、「将を射んとすれば、まず馬を射よ」とばかりに三木を買収した。同時代の『現代新聞批判』(41・9・15)トップ記事「現下の新聞統合問題」では、正力が「報知の株を闇取引で買占めた」としている。さまざまな駆け引きを経て、「結局、全株式を額面の百十万で買った」というのが、務台の説明である。務台はさらに実質的な資産価値を、つぎのように評価する。
「当時の『報知』の資産は有楽町に一千余坪の土地と鉄筋二千坪の建物、それよりも三十万部の新聞用紙の受給権で、これは金では評価できない、何百万円にも相当するかけがえのない宝であります。[中略]これが、その後、特に終戦後、『読売』のために大きなプラスになったのです。例えば戦中戦後の用紙の統制時代の配給量百五十六万部に『報知』の三十万部が加算されたこと、さらに機械は別としても、現在『そごう』に貸してある土地、建物など戦後の『読売』発展に大きな貢献をしております」
報知の旧社屋跡は、現在、有楽町駅西側のデパート「そごう」になっているが、建物全体の正式名称は「読売会館」である。読売ホールなどの施設もあり、当然、読売の所有物である。
ことについでに、その後の読売の土地政策の歴史を整理しておくと、現在の大手町本社屋への移転以前の旧本社屋だった銀座のビルも、やはりデパートのプランタンに貸している。これらの賃貸用の不動産は、「株式会社よみうり」(読売興業が改名)の所有になっている。ところが、「株式会社よみうり」の代表番号に電話を掛けると「ハイ、巨人軍です」と応答されるという関係になっている。つまり、不動産とプロ野球チームという確実な収入源が、知る人ぞ知る読売グループの隠れパワーなのである。
三大紙で比較すれば、朝日は有楽町の旧本社敷地を朝日新聞社の直接所有として残している。別に読売の真似をしたとは認めたくないだろうが、西武デパート(阪急デパートとの双子ビル)に貸している。毎日は赤字倒産しかけて、有楽町の旧本社敷地を売り払い、旧リーダーズダイジェスト、現在は三和銀行の支配下にある管理会社のビルの共同所有者となった。移転後にも再び赤字が増大したが、今度は売る土地さえない。再建会社になったりして、発行部数の上でも読売や朝日の半分以下と、大きく引き離されている。この側面だけから見れば、現在までのところ、記事の中身はともかく発行部数では、所有地を上手に活用している新聞系列の方に経営上の軍配が上がっていることになる。
読売が現在の大手町本社の敷地を獲得した経過については、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』にも簡略に記した。
務台光雄の伝記『闘魂の人』では、なんと三三頁もついやして、元国有地だった敷地を獲得した経過を、詳しく講談調で語っている。決定時の首相佐藤栄作にも「脅迫」といわれながら、強引に払い下げを受けるにいたるまでの自慢話である。当時は同じ副社長の立場だった小林与三次も、務台と一緒に佐藤栄作と会っている。現社長で当時は政治部記者だった渡辺恒雄も陰で動いたという。読売は「五百万の読者を代表している」のだというのが、「脅迫者」こと務台の弁であった。
さて、話を戦前に戻すと、戦時体制下の新聞統合で「朝・毎・読」の全国三大紙体制が確立した。その「うまみ」をたっぷり吸収したからこそ、三大紙は、戦後の米軍占領下でも生き残り、さらに肥え太ったのである。読売の場合はとくに、部数に関する限りではあるが、この三大紙のドンジリからトップに踊りでた。
このような時代に生き延び、生き残った新聞商法の根本には、いわゆる「機を見るに敏な」経営政策がなければならない。戦時体制ともなれば、その経営政策のなかでも、とくに重要なのが政治的な立ち回り方であった。
新聞統合政策は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。『新聞史話』(内川芳美、社会思想社)によれば、「具体的な統合実施過程では、各都道府県知事および警察部長、特高課長が指揮をとった」のである。
口実はどうあれ、新聞統合政策は、だれの目にも明らかな言論統制の手段であったが、新聞用紙制限令の場合には、実際に、その証拠となる文書さえ発見されている。『現代史資料』(みすず書房)41巻所収の資料、「新聞指導方策について」は、内閣の専用罫紙にタイプされた高級官僚の提言である。そこで最善とされているのは、「新聞の営業部門を掣肘する方法」である。具体的には、「用紙供給権」を情報部が握ることであり、さらには、「新聞社収入の半額以上を賄う広告収入に容喙する」ことまでが提案されていた。日付は一九四〇年(昭15)二月、日米開戦の一年一〇か月前のことである。
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