第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9
第十一章 侵略戦争へと軍部を挑発した新聞の責任 3
「競争でヒトラー礼讃」する呉越同舟の「醜態」ぶり
新聞が、この状況下で生き延び、あるいはむしろ巨大化するためには、紙面の工夫も必要であった。読者に違和感を持たせないように気をつけながら、政府または実力官庁の意図するところへの迎合を、たくみに演出する紙面作りの技術が求められる。その典型のひとつとして、日独防共協定から日独伊三国同盟、いわゆるファッシズムの枢軸国同盟が形成されていく時代の、新聞紙面における「ヒトラー」の評価の仕方を見てみよう。
戦後の民主化闘争で編集の主導権をにぎった読売従業員組合は、退陣要求に応じようとしない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。敗戦の年の一一月六日には、「熱狂的なナチ崇拝者/本社民主化闘争/迷夢深し正力氏」と題する三段見出しの記事を載せた。内容には、戦時中の正力のヒトラー崇拝演説の暴露などもあったが、中心的な話題は、正力が、ナチ党大会に日本の産業界を代表して出席した藤原銀次郎に、ヒトラーへの土産として川端龍子作「潮騒」のつづれ織り緞子[どんす]作りの壁掛けを託し、その模造品を読売本社の本堂に掲げていたという事実にあった。『読売新聞八十年史』では、この経過の弁明にやっきとなっている。「この記事には大変誤りがある。事実はこうである」とはいうものの、なんのことはない、「国民代表としての藤原を、ヒットラーをして重く扱わせたい、それには然るべきみやげ物を持たせたいというのが正力の考え」だったというだけなのだから、なにをかいわんやである。
「ヒトラー崇拝演説」の方については、すでに紹介済みの『悪戦苦闘』のなかで、正力自身が、公職追放解除で最早時効というつもりであろうか、いかにも堂々と、ヒトラーの演説を引用しながら語った自分の戦前の演説を、つぎのように掲げているのである。
「ドイツのヒトラーは、その自叙伝において、『マルクス主義者は自己の経験によって、強き意志の価値をよく知っておるから、彼等の運動は意志の強きものを警戒して、これに非難攻撃の十字砲火を浴びせるが、意志の弱きものは役に立たぬが妨害にもならぬから、これを賞め、ことに頭脳明晰なるも意志の弱きものは大いに推賞して、たくみに大衆に食いいり、つぎからつぎへと地歩を獲得していくのである』とのべておりますが、まことに適切なる観察であります。頭脳明晰なるも意志の弱きものは、なんら役に立つことなく、恐るべきは意志の強きものであります」
だが、時局への迎合もあってヒトラー崇拝に走ったのは、読売だけではなかった。同時代の『現代新聞批判』(36・12・15)には、「競争でヒトラー礼讃/東朝と読売の醜態」と題する記事が載っているのだ。短文なので、全部紹介しよう。
「日独防共協定はドイツのファシズムを日本に輸入することになりはせぬかとの懸念を国民に与えている。ファシズムは日本の国体とは相容れざるものだということは、軍部の代表者もしばしば声明した。だから日本ではファシズムを誰も歓迎していないはずである。然るに国体と相容れないはずのファシズムの旗が日本国旗と交叉されているのを見ると、日本国民は異様な感情と恐怖とを感ずる。日本の日の丸の中に逆まんじの気味悪い印をくっつけずにはおかないような不敬不忠の徒があらわれはせぬかということを恐れるのである。
日本国民がこんな感情に捉われているときに、十二月十日の東朝の十六面に『ヒトラーのサイン』という随筆が載っている。筆者は橋爪檳瑯(びんろう)子という聞いたこともない名前であるが、彼がヒトラーから自署入りの写真を貰ったことを得意気に、そして限りなく有りがたがって書いているのである。その文章は飛びきりまずいが、書いていることはヒトラー礼讃だ。この筆者はサインマニアではないかと思われるが、書いていることはヒトラー主義の宣伝である。ヒトラーを礼讃する随筆など、気の利いた奴は誰も書きはしないから、檳瑯樹だか、しゅろ樹だかを狩り出したものだろうが、日独協定の提灯もちにこうまでして苦労しなければならぬことを思うと、転落の『朝日』に同情に堪えない。
もっとおかしいのは、『読売』である。読売は十二月九日の朝刊二面に、藤沢親雄にヒトラー主義の礼讃を書かせている。『読売』には反ヒトラーの急先鋒鈴木東民がいるから、これで帳消しにするつもりかもしれないが、それならそれで、もっと気の利いた提灯持ちを探したらどうか。藤沢の神がかりは有名なものだ。現に『読売』に書いているものだって一向に要領を得ない。これはさすがに読売社内でも問題になっているとのことだ。『躍進読売』などと言っているが、やはり成り上がりものは、素性が争われないもので、時々こうした地金を出す。提灯にしても、ちと要領良くやってはどうか。あえて『読売』のため苦言を呈する」
文中の「鈴木東民」は、正力が安く買い入れた「アカ」の一人で、戦後には、読売従業員組合の組合長、つづいて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長となった。
鈴木は、読売に入社する以前に、朝日の契約記者としてドイツに渡り、現地からフリー記者としてヒトラー台頭の時代のドイツの状況を日本の新聞雑誌に寄稿し続けていた。読売では外報部長となるが、次第に軍からにらまれ、休職の形で、戦争中は郷里の宮城県の田舎で晴耕雨読の隠遁生活を送っていた。
反ナチの論陣を張っていた鈴木が、読売からはみ出して行くのと反比例して、読売の紙面はヒトラー礼讃の度を高めたようである。日米開戦直前の『現代新聞批判』(41・10・1)の「読売新聞に与う」と題する記事には、読売の身びいきな外電報道の誤りに対する皮肉たっぷりの、つぎのような批判がある。
「独ソ開戦当初、独軍の電撃的勝利を信じた読売が、最初から出鱈目極まる報道をかかげ、果たしてこれが信頼すべきソースから出たかと疑われる『ニュース』(六、七年前の読売は、外電と称して実は編集室の机上でニュースをつくりあげると噂されたものだ!)を満載し、独軍の進路を示すヤリを地図の上で、モスクワの近所まで突き出し、あとで独軍の進撃がはかばかしくないことがわかってから引っこみがつかなくなったことは天下周知の事実であり、昭和年代のお笑い草であった」
ニュースのデッチ上げは、単なる「噂」ではなかった。これより三年前の『現代新聞批判』(38・9・15)には、「創作記者に罰棒転勤/読売虚報事件処分」という長文の記事が載っていた。なぜ長文なのかというと、この虚報事件そのものは、いわゆる氷山の一角にしかすぎず、読売では立回りさえ上手ならデッチ上げ記事を「社報で賞賛」され、「押しも押されぬ大記者に成り上がり」も可能だという複雑な文脈だからである。「福井特派員は不運と云えば云える」というこの事件と、その処分の有様は、つぎの通りである。
「“大阪支局員福井三郎君罰棒に処し転勤を命ず”こんな掲示が読売新聞社編集局の掲示場に高々と貼り出されて、さすが心臓の強い読売新聞の記者諸君のド胆をもいささかヒヤリとさせた。全くこの社始まって以来の掲示である。
これはもちろん、揚子江上英米軍艦訪問記の“創作者”を遇した道ではなく、海軍当局から訂正を申込まれる様なヘマをやった未熟記者に対する処分であるに違いない。が何にしても、新聞記事は創作するのが練達堪能の記者とされ、やがて幹部に出世する大道であるかの様な感銘を、今まで幾多の例で見せつけられて来た読売の若い記者諸君を戸惑わせた処分であり、掲示であったに違いない」
日本テレビには、開局当初の一九六〇年代、非常にヤクザっぽい元読売記者が何人かいた。その内の一人で報道局長まで昇りつめたのが、故・福井三郎であった。同名異人かもしれないが、あのガラガラ声で吠えまくっていた「サブチャン」ならば、それくらいのことはやっていそうな気がする。
だが、酒をおごってもらったこともあるからいうわけではないが、結構愛嬌者だった「サブチャン」の“創作”「揚子江上英米軍艦訪問記」よりも、「独軍の電撃的勝利」報道の方が、歴史的な罪は重いのではないだろうか。
というのは、先に紹介した読売の「出鱈目極まる報道」批判より一か月前の『現代新聞批判』(41・9・1)でも、やはり、読売の「独軍の電撃的勝利」報道を批判している。そこでは、「赤軍全面的崩壊の徴がまだ存在しない」とし、「独軍は優勢ではあるが、しかし喧伝されたような短期間に戦略的勝利を得るほど圧倒的な優勢さではなかったようだ」と判断している。しかも、九月からは「寒くなる」こと、つまりはロシア伝来の最大最強の援軍、冬将軍の到来を告げているからだ。この判断は当たっていた。すでに明らかになっていることだが、日本の軍部は、独ソ戦線の膠着状態についての情報を得ていながら、一般国民ばかりか天皇までもだまして真珠湾奇襲攻撃を急いだのである。
一か月にたった二回しか発行できないタブロイド新聞が、ほぼ正確に分析していた独ソ戦線の状況を、なぜ、天下の大新聞ともあろうものが、誤って報道していたのだろうか。『現代新聞批判』(41・10・1)では、さらにつぎのような厳しい「警告」を発していた。
「本紙は前々号において読売のこの虚構極まる報道ぶりをとりあげ、それが盟邦に対する同情よりも、むしろ陋劣(ろうれつ)なる営利主義に基くものなる点を指摘するとともに、国民を惑わす罪の大なる所以を説いて警告を与えた」
その前々号の『現代新聞批判』(41・9・1)には、社会批評家としても著名な元新聞記者、日本人では『トム・ソウヤーの冒険』の著者として知られるアメリカのマーク・トウェーンの、つぎのような至言がのっていた。
「真実が靴の紐を結ばぬうちに、虚偽のニュースは世界を一周してしまう」
この、無線通信の黎明期に発せられたマーク・トウェーンの至言を前にして、内心ギクリせずにいられるジャーナリストが、現在でも、果たして何人いるのだろうか。
ガセネタ報道まじりの侵略戦争への協力は、しかし、日本の大手メディア全体の共通の仕事だった。戦局の進展とともに、「朝・毎・読」の横並び現象も進む。『現代新聞批判』にも読売単独の批判記事が影を潜め、「帝都三大新聞の醜状」(41・11・1)といったような批判が増えていく。正力が前述のように「新体制準備委員の言論代表」という立場となれたのは、このような共通の「醜状」を呈する同業者仲間と肩を並べてのことであった。すでに紹介した「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」という起源不明の古いダジャレの成立は、もしかすると、このころのことだったのかも知れない。「ヨタ」には「ヨタ記事」という語源もありそうだ。「デッチ上げ記事」の意味である。
正力自身の戦争中の政治的経歴を、『読売争議(一九四五・四六年)』から要約紹介しておこう。
東条内閣の推薦で貴族院議員となった。倒閣で実現しなかったものの東条内閣の最後の改造で内務大臣就任の交渉を受けて受諾した。小磯内閣で「軍閥支持の功績によって言論界を代表して内閣顧問」となった。軍閥の御用政治団体、「翼政会および後の大日本政治会において幹部」だった。
最後には、「敗戦処理内閣への入閣を運動した」という事実さえあるようだ。
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