第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9
第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道 3
「首切り浅右衛門」まで登場した読売記者の総入れ替え
かつての「文学新聞」から「黄色主義」への転換は、読売の紙面を、それまでとはまるで正反対の性格に作り変えることにほかならなかった。それは同時に、総入れ替えに近い大量のベテラン記者クビキリ、追放を意味した。では正力は、小村らのベテラン記者たちを追放するために、どのような手段を取ったのであろうか。
『読売新聞八十年史』によれば、出資者による匿名組合代表の藤原銀次郎が正力にたいして、つぎのように指示したことになっている。
「松山に五万円やってくれ、そのかわりに君が入社して使いにくい人間がいれば、松山に処置させるから」
正力と松山は工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立ち会いの下で、読売の経営権についての「譲渡契約書」を結んでいる。『読売新聞八十年史』によれば、正力は、「調印の際、松山社長に五万円、松山について去る一三人に合計一万六〇〇〇円の退職手当を支給する事を承諾した」のである。
この経過について、いくつかの正力講談では、松山が正力の社長就任を妨害したとし、自分が居座ろうとして辞表のとりまとめなどの画策をしたかのように描いている。旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』では、それらの正力側の主張の矛盾を明らかにするために、かなりの手間をかけ、紙数をついやした。本書では、『別冊新聞研究』(2号、76・4)から、当時の読売記者、花田大五郎の、つぎのような証言を紹介するにとどめる。
「――[前略]松山さんと正力さんが交替するというその前の晩、松山さんが正力さんに会って、花田さんをはじめ、現役の部局長の辞表を全部とりまとめて正力さんの前に出して、『「読売」の部局長は君のような警察官の前歴のある者の下では働かないといって、この通り辞表を出している」といったそうですが、その前に部局長が集まって辞表を出すというようなことがあったんでしょうか……[中略]
松山君も、そうやって辞表を出すようになったので、私どもも自然にやめたんです。おそらく松山君の手元に辞表を出すなどということはなかったんじゃないかと思います。
今のようなことは正力君がいいだしたんでしょう。『正力松太郎』という著述かなにかに……。
――読売の社史にも、御手洗辰雄さんの『伝記正力松太郎』にもそう書いてあります。
御手洗君には、私が大分にいる時、会ったことがありますが、あれも門外漢です。
――正力さんの方からそういう話がでたということでしょうか。
そうです。私はそう信じます。だから松山君との交渉もどこまでが本当だかわからないですよ。松山君は没落してしまっていますからね。あとは正力にとられたんですから……。だからその話はどこまで信用していいかわからんですよ。
――松山さんがそういうかけひきをするということは、ありうる話でしょうか。
いや、私はそれも信じませんね[後略]」
ともかく、花田らの元朝日「白虹事件」残党組は、松山と行動をともにし、一斉に辞職したようである。正力の方から留任を要請したり、昇格を交換条件にしてつなぎ止めた幹部クラスの記者たちもいる。だが、その部分の話はあとにまわして、一斉辞職につづく大量クビキリの手口を見てみよう。『読売新聞百年史』には、つぎのように記されている。
「正力がまず手をつけたのは、むだや不正をなくすこと、人員整理などによる徹底的な経費の削減だった。正力入社後、数か月して入った半沢玉城が整理に当たったが社会部員をわずか十人以下にするほどの大ナタをふるった。そのかわり、整理が一段落すると、自ら責任をとるかのように、あっさり退社した」
文中の「半沢玉城」という人物は、『読売新聞百年史』でも『読売新聞八十年史』でも、まったく何の説明もなしに登場して編集長に就任し、たちまちにして去って行く。やったことは、「人助け」とは正反対の「首切り浅右衛門」型の荒業だが、話の筋の方は、沓掛時次郎のような流れ者の人情ヤクザ物語そっくりである。または、「一件落着」後に風の中を一人立ち去る「用心棒」そのままの怪人物である。読売の社史にはゴツイ顔の写真が印刷されているし、正力乗りこみの翌年の『新聞年鑑』にも、編集長解任の記事に名が出ているから、決して幽霊ではない。だが、仮にもせよ編集長だったのに、明治から大正期にかけての主な記者なら必ず載っているはずの『明治新聞雑誌関係者略伝』には、その名は見当たらない。記者としての評価は低い人物だったのではないだろうか。
『読売新聞八十年史』の方には、半沢のクビキリの手口の一つが、つぎのように記されている。
「半沢はたいして役に立ちそうにない比較的高給で老朽の記者を、編集局付きとして仕事を与えなかったから、いたたまれなくなって、自然に退社を申出ることとなり、人員整理は予想以上に順調に進んだ」
さらには、「不正摘発」に名を借りる恐怖政治が敷かれた。
営業局長兼広告部長の桜井貢の場合には、正力自身が連れてきた新任幹部だったが、使い込みをしていたらしい。『読売新聞八十年史』には、桜井ほかの「不正発見」「解雇」「告発」パターンが、つぎのように四件が記されている。
「正力は、直ちに桜井を解雇するとともにこれを告発してしまった」
「今度は中村販売部長の不正が発覚した。正力社長は、もちろん間髪をいれずにこれも告発した」
「これで不正は絶えるかと思われたが、またしても販売部員某が不正をやり、これも告発された」
「また突如として広告部次長の中村が社金五千円を横領した事件が発覚した。[中略]告発されたと知った中村は、自らの悪事を恥じ、青酸カリ自殺をとげた」
正力の存命中に発行された『読売新聞八十年史』では、この告発の「正しさ」が延々と強調されているが、正力死後の務台社長時代に発行された『読売新聞百年史』では、次のようになっている。
「社長が社員を告訴するというこのやり方に、社の内外ともびっくりした」
この方が世間常識というものであろう。
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