Political Criminology

国際的孤立に進む日本の人権政策

-国内法のシステムに閉じ込められる人権-

「世界」2013年10月号所収、pp200-209


勧告を無視しようとする日本

 さる6月18日、安倍内閣は、国連拷問禁止委員会の勧告に関する質問主意書に対して、「法的拘束力を持つものではなく、締約国に従うことを義務づけているものではない」とする答弁書を閣議決定した。

 国際人権条約のうち、条約機関を設置している主要人権条約については、その条約機関により、各締約国の条約履行状況が定期的に審査される。その審査を受けて条約機関は総括所見を発表するが、その中に勧告が含まれている。ここで問題になっているのは、この勧告部分である。

 もとより、勧告であるから、それがそのまま法的な命令となるわけではない。形式的な法的拘束力の有無の問題だけでいえば「無い」とすることは、間違っているわけではない。しかし、それを敷衍して、「締約国には従う義務が無い」、と言ってしまうのは、明らかに大きな誤りである。

 日本国憲法の第98条第2項は、日本が締結した条約について、「誠実に遵守する」ことを国に対して義務づけている。すなわち、日本が締結した国際人権条約は、この条項によって日本の国内法、憲法的な規範としての効力を担保されることになる。ちなみに、憲法の第81条では、日本の裁判所の違憲立法審査の対象に国際条約を含めていない。したがって、日本の国内法の体制の中では、条約はそもそも憲法とは齟齬を来たさない、同じ価値を表した法であると看做される。

 いわゆる国際人権基準には、こうした条約の他に、国連総会や人権理事会が採択した宣言や規則、各種ガイドライン、報告書、さらに条約機関が出す一般的意見、見解、勧告などが含まれている。条約自体は、それぞれ独自の発展を遂げてきた各国の法制度とは必ずしも形式的に一致しないことがある。そのため、それを補い、条約が表している規範の具体化を図るためにこうした体制が組み上げられた。形式的には、このうち法的拘束力を有するのは条約だけである。それ以外の基準は、国連総会の決議も含め、法的な拘束力は認められていない。しかし、条約は、こうした国際人権諸基準の一部として位置づけられることにより、実際的な法規範としての力を発揮する。人権を保障する体制を効果的に構築するという目的からすれば、こうした国際人権諸基準を、法的拘束力の有るものと無いものとに形式的に分離することにはあまり実際的な意味はない。

 これらを考えれば、「誠実に履行する」が意味するところは自明であろう。国際人権諸基準は条約本文を通じて、国内法の体制の中に包括的に組み入れられる。憲法と国際人権諸基準が相互に適合的であるという前提で、実際的な人権保障の体制を組み立てていくことこそが、この体制の中で求められていることである。

 条約遵守義務を負っている以上、各締約国には、関連するガイドラインや勧告を含めて、人権基準全体の実現に向けて努力するべき義務がある。法的拘束力の有無を問題にするのは、憲法と条約が前提としている「人権を保障する体制を効果的に構築する」こととは相容れない。だとすれば、日本政府が再三にわたって「法的拘束力の有無」に拘泥した主張を繰り返していることには、別の意味があることが見えてくるだろう。すなわち、現在の日本政府は、人権保障の国際的な水準を日本において実現することに意義を見出しておらず、少なくともこの点については、国際的な孤立政策を採用しているように思えるのである。

孤立する日本の人権政策

 これに先つ5月、国連の拷問禁止委員会での審議の席上、日本の刑事司法手続きが「自白偏重に偏っており、まるで中世のようだ」と指摘したモーリシャス出身の委員からの指摘に反応し、日本政府代表の上田人権人道大使が、「シャラップ!シャラップ!(黙れ、黙れ)」と場内を怒鳴りつける場面があった。およそ外交の場には相応しくない言葉使いや態度を政府代表自身が示してしまったわけだが、このことの意味はもっと考察されて然るべきだろう。

 2008年の自由権規約委員会による第5回政府報告書審査の際、日本は「警察での取調べ中の自白よりも近代的で科学的な証拠に依拠すべきだ」という勧告を受けている。つまり、代用監獄制度を前提とした現在の自白偏重の取り調べを、前近代的で非科学的だと批判したわけである。今回の拷問禁止委員会でのモーリシャスの委員の発言も、この指摘を念頭に置いていると思われる。

 上田大使は、件の発言の後、それに続けて「日本はこの分野において最も先進的」と主張した。つまり、これまで繰り返し批判されてきた日本の刑事司法の問題点について、感情的な反発を交えつつ、一切の国際的な批判を受け入れないという強硬な態度を示したわけである。

 これ以外にも、自由権規約委員会での審査の際、日本からの代表団が、起訴前の取り調べの際に弁護人の立会や録音録画が認められない日本の制度を擁護し、「取調官と被疑者との間の信頼関係」の存在が重要だと力説した上、それが被疑者の将来的な改善・社会復帰にも有効だとの持論を展開したことがある。これに対しては、さすがに委員が「日本政府は根本的に「無罪の推定」という人権保障上の最重要事項を理解していない」と直ちに指摘した。しかし、根本的なところでは、日本政府はここで述べたような理解や態度をいまだに崩していない。そもそも、これらが人権の問題であるという認識が薄いのではないか、と思わされる。

 このような日本政府の態度は、かねてより国際的に強い非難にさらされてきた。2008年の自由権規約委員会での審査の際、日本の「聞く耳を持たず」という態度が非難され、「条約機関の審査の場に出てきても、帰国したら同じやり方を続けるだけで改善に向けた勧告を聞く気がないのなら、条約に入った意味はどこにあるのか」といった激しい批判を受けている。

 条約機関をはじめ、国際的な人権機関は各国の人権状況を考慮したうえで、具体的な改善策を人権諸基準に照らして提案する。これが勧告である。もとより、各国の制度にはそれぞれ異なった歴史や背景があるため、これらの勧告がそのまま実施されるとは限らない。しかし、各国ともその実現に向けた努力は行っているし、条約機関の審査などの際には、どのような努力が払われているかを報告することになる。しかし、日本政府が各条約機関に提出している報告書を見ると、以前の勧告を踏まえた改善に向けての努力や途中経過などはあまり記載されておらず、一方的に国内の制度の説明に終始しているのが大きな特徴である。

 これらを考え合わせると、日本政府は、条約機関からの勧告を、自らが締約国としての義務を負う条約履行システムの一環としてではなく、ただの外圧としてしか理解していないように思われる。独善的な国内法システムに閉じこもるのではなく、国際社会の協調の中でともに人権保障を進めていくためにあるのが国際人権保障システムである。しかし、日本政府の対応を見ていると、まさに独善的な国内法システムに閉じこもろうとしているかのように見える。

 国連が中心となって作られた国際人権条約は30以上を数える。しかし、日本が締約国となっているのはそのうちの13程度。それ以外にも人権にかかわる条約は多い。数の上でも、日本は国際的な人権保障体制に積極的な国ではない。

人権状況の改善に向かわない日本

 日本政府が国内法のシステムに閉じこもろうとするのは、いくつかの特徴的な人権問題に関しては、顕著な傾向である。たとえば日本は国際的には廃止への潮流がほぼ決定的となった死刑制度について、その存置を掲げる国である。むろん他にも死刑存置国は存在するが、それでも死刑適用の減少や状況の改善に向けての措置はそれぞれ検討されている。しかし、日本政府は、「世論がこれを強く支持している」という理由を掲げ、具体的な改善に向けての方向性は全く示さない。

 この「世論の理解が得られない」という釈明は、婚外子差別や代用監獄の問題など、他の制度の改善を拒む際にも用いられている。しかし、これは人権の問題を扱う際には奇妙な論理にしか見えない。人権は、社会の中の大きな勢力、支配層、多数派によって虐げられた人々が最後に依拠する手段である。そうした人々は、むしろ世論などによって攻撃を受けていることのほうが多い。人権の問題に世論を持ち出すこと自体、むしろ人権侵害を助長する態度でしかない。人権状況を改善するためには、世論は、むしろ説得し、合意を作り上げていくために働きかける対象である。しかし、日本政府の主張は、人権問題を放置する際の理由づけとして用いられている。その点に関する懸念は、各条約機関による勧告でもたびたび触れられている。

 旧日本軍性奴隷制、いわゆる「慰安婦」問題は、多少複雑な様相を呈している。日本では、往々にして、橋下大阪市長のように軍性奴隷制の問題を軽視したり、強制連行の問題に矮小化させる政治家の発言が目立つ。ちなみに、軍性奴隷制に該当する制度が存在したこと自体は否定できない事実であり、徴用の際に強制があったかどうかは、本来の論点では全くない。問題は、軍が実効管理していた性奴隷が存在し、それが制度として利用されていたことである。日本政府の立場は、この問題が戦後補償の一環としてすでに解決済みであり、さらにアジア女性基金を通じた民間賠償で決着をつけたとするものである。

 一方で、国際社会からの懸念は、国としての公式の謝罪、賠償がいまだに行われないまま、サバイバーの女性たちが次々と高齢のために死去している点にある。公式の謝罪、賠償の手続きを怠っているのだから、この人権侵害は現在も継続中である。過去の解決済みの問題であるとする日本政府の立場とは対立している。したがって日本政府に期待されているのは、元「慰安婦」のサバイバーたちと会見し、公式に謝罪すること、必要な賠償手続きについての検討に着手すること、そして、サバイバーたちの尊厳をさらに傷つけるような主張が政治レベルでなされないよう、必要な措置をとることである。

 ところが、国内の議論状況を見てみると、国際的な人権問題となっている本来の論点は一顧だにされず、サバイバーの尊厳をさらに傷つける言説のみがメディアやネット上で量産され、政治家の発言として出されている。この状態は、条約の体制として考えれば、本来的に責任ある当局によって規律を回復すべき対象でしかなく、正当な議論が起こっているという状況には至っていない。にも拘わらず、政権トップを含めて、人権問題としての扱いを無視した対応が横行しているのが現状である。冒頭で問題にされた、拷問禁止委員会からの勧告も、具体的にはこの問題に関連していた。日本は、明らかに、人権問題については国際社会からの孤立を選び取っている、ということができる。

条約の国内的実施への強い抵抗

 多くの主要人権条約には、条約の締約国の個別事件につき、国内での救済手段が尽きた場合、条約機関に対して通報するという手続きが用意されている。しかし、日本は、この各種個人通報制度について受諾ないし加入をしていない。条約機関が行うことができるのは状況の改善に向けた勧告のみであり、ここでも直接的に確定判決に影響できるような介入は発生しない。しかし、日本政府は「司法権の独立との関係で疑問がある」として、この制度への参加を拒んでいるのである。法的拘束力の有無の問題でいえば、この勧告についても形式的な拘束力は認められない。それならば、受諾、加入にあたっての障害は何もないはずだが、これについては、突然「司法権の独立」という大義名分が持ち出されるあたり、日本政府による抵抗は皮肉な様相を呈している。

 個人通報制度は、各国の人権状況を改善するために国際人権保障システムが設けた、実効的な条約実施のシステムである。これを受け入れないという選択は、明らかに独善的な国内法システムを維持し、国際的な影響を極力排除しようとする傾向のなせるわざだということができるだろう。

変質させられた国内人権機関の構想

 個人通報制度とともに条約の国内実施のためのもう一つのカギとなる制度が、いわゆる国内人権機関の設置である。条約機関からの勧告などを踏まえて国内での条約の履行を支援する存在として構想されている。日本では、かつての自民党政権時代に提出された人権擁護法案や民主党政権時代に出された人権委員会設置法案などが、その設置を目指した立法だと言われている。しかし、この理解には大いに問題がある。

 国内人権機関の設置については、1946年の経済社会理事会の決議2/9が最初のものである。国際的な人権基準の実施にあたって、国内においてそれを担当する機関を設置すべく、各国で設置が進められた。1978年には国内人権機関設置に向けた国連セミナーが開催され、そこで国内人権機関のガイドラインが発表された。それを受けて1993年に最終的に採択されたのが、いわゆる「パリ原則」と呼ばれる国内人権機関に関する国際基準である。

 現在世界に存在するすべての国内人権機関は、このパリ原則に沿うことを要請されている。各国の国内人権機関は、国連人権高等弁務官事務所を事務局として、国際的な調整委員会を形成しており、そこで各国のそれぞれの機関がパリ原則を満たしているかどうかが審査される。

 パリ原則は、国内人権機関の主な機能を、次の6つに分けている。

  1. 人権法制・状況に関する政府、議会への提言(法案審査の機能)
  2. 人権諸条約の批准や国内実施の促進(条約実施の機能)
  3. 条約機関への政府報告書への意見表明(政策提言機能)
  4. 国連人権諸機関との連携・協力(国際協力機能)
  5. 人権教育・研究の支援(人権教育機能)
  6. 人権・差別撤廃の宣伝(社会的広報機能)

これらを整理すると、大きく、条約実施に向けた政策提言の機能と、そのための国際協力機能、一般社会に向けた働きかけを担う広報・教育機能に分けられる。この中で最も重要なのは政策提言の機能である。国内人権機関は、実際に行政を担う政府機関とは別の立場で、国際条約を実施するという観点から国内の状況に対して具体的提言を行う機関である。したがって国際人権基準こそが、影響力行使の際の基準となる。この点は、国内法によって限界を画された行政機関とは決定的に性格が異なる。この政策提言機能を十全に機能させるには、行政機関からの組織的、財政的な独立の担保が最重要課題となる。

 この点に関して、日本の人権擁護政策の担当官庁となっている法務省は、実際の行政を担う行政機関そのものであり、独立性の要件とは根本的に相容れない。国内人権機関が担うべき政策提言機能とは、法務省や他の省庁の業務に対して、国際人権基準の実施という観点から、具体的かつ時宜にかなった判断や政策調整を提言するところにある。過去の政府提出法案がいずれも法務省の外局として国内人権機関を設置しようとしたのは、独立性を満たさないばかりではなく、国内法システムの内部だけではなく、国際人権基準に則して機能を果たさなければならないという点を無視している点において批判されるべきである。その意味で、国内人権機関は、国際人権基準に準拠した監査機能を持った機関として、会計検査院や人事院と同じレベルのものとして理解されなければならない。

 しかし、日本で問題となった国内人権機関設置法案の最大の問題点は、別のところにある。パリ原則は、世界各国の多様な国内人権機関の在り方を見据えた上で、上記の本来的な機能とは異質な、準司法的機能に対しても一定の基準を示した。これが、パリ原則の定めた追加機能とされるものである。具体的には、準司法機関として、個別事件を扱い、具体的な救済措置を担う機能のことである。法案が示した国内人権機関は、まさにこの準司法的機能を中核に置くものであり、国内法システムの中で違法とされる行為に対して、具体的な救済措置を講ずることを基本として設計された。これは、新たな介入機関の設置であり、慎重な設計がなされなければ、むしろ人権を侵害する危険性を含むものである。

 パリ原則は、準司法機能を持つ国内人権機関について、主たる対象を公権力による直接的な人権侵害や制度的人権侵害に限定している。一般社会内の私人間の問題については、速やかに関係省庁に移管することが望ましいとされている。また、人権機関が準拠すべきルールは、第一義的に国際人権基準であることを保障しなければならない。国内法が国際人権基準と齟齬を来たしているような場合には、その旨を指摘し、改善に向けて働きかけることが期待されているのである。

 ところが日本の法案に表れた国内人権機関の持つ準司法的機能は、もっぱら私人間の問題に着目し、司法機関の判断の下に置かれた介入機関でしかない。公務員による人権侵害も対象にするといわれているものの、制度的な人権侵害に対する具体的な政策提言の機能とは連動しておらず、政策提言の機能自体も、単なる意見表明を可能にすることだけにとどまっている。そして、この点でもまた、直接国際人権基準に準拠する形は避けられている。あくまでも国内法システムの内部に閉じ込められた機関としてしか認められていない。

 こうしてみると、日本での国内人権機関に関する議論は、大きく変質してしまっていると指摘せざるを得ない。パリ原則の基本的な形に沿った制度設計ではなく、一般的な準司法機能を強調したために、国際人権諸基準に準拠した、条約の国内実施のための機関を設置するという、本来の目的が失われてしまっているのである。この点については、法案を提出した法務省だけでなく、各政権党も、あるいはそれに向けて働きかけた支持層も、あるいは法案に反発し反対した層も、十分に状況を理解していたとは言えないのではないか。国内人権機関の設置をめぐるこうした混乱には、少なからず、日本の社会における人権問題に対する理解の危うさが影響しているように思われる。

横行する差別

 国内人権機関に準司法的機能を期待する意見が強まったのは、一つには日本には差別禁止のための具体的な法制度が用意されていないためである。特に、集団的属性を標的とする攻撃的な差別表現の規制は自由権規約および人種差別撤廃条約などにより、規制が義務付けられている。このうち、日本政府は人種差別撤廃条約の該当条項については留保をしており、差別禁止立法を未だに設けていない。

 しかし、一般社会の中での状況は悪化の一途をたどっている。政治家や市長、知事ら、公人による差別発言は止まらず、政権内部もそれを助長してしまっている。さらには、一部の民間の勢力による排外主義的なデモも横行しており、具体的な暴力事件にまで発展している。しかし、具体的な差別禁止法が無いために、具体的な規制も、取り締まりもされないまま、事態は放置されている。

 国際人権基準の立場からすれば、差別が横行し、攻撃的な言動が社会に蔓延するような状況は、明らかに人権条約の実施にかかわる重大な局面である。差別表現の規制については、表現の自由との調整の問題はあり得るが、国際人権基準はそれについても、すでにある程度明確な調整原理を掲げている。差別表現に対する規制が条約の他の権利の保護に照らして必要かつ正当なもので、その規制手段を採用することに合理性がある場合、他の権利の保護のために妥当な範囲に限り、権利の調整が許される。これを踏まえて、各国は差別表現の禁止規定をすでに設けている。

 しかし日本では、表現の自由に対する規制が行われた場合、それが際限なく広がる危険性があるという懸念が強く、法律関係者の間でも、表現規制に対しては消極派が多い。結果として、差別が横行する状況に対してなんら有効な施策が打たれていない状況にある。

 だが、攻撃的な差別が禁止されるのは、別に表現の自由との調整が常に必要な問題ではない。表現の自由が差別禁止法との調整を必要とするのは、特殊な事態が発生した場合に限るのであって、それ以前に、まず差別禁止という個別事例に援用できる一般的規範が樹立している必要がある。日本の現状は、そうした立法措置自体が押しとどめられているところにある。それを国内人権機関などを通じて解決しようと模索するのは、やはり本筋ではないと言わざるを得ない。特定の属性を持つ集団に対する攻撃を、法規制の対象にすることはすでに国際的には確立した標準であり、現在の日本はすでにそれを真剣に取り上げないといけない状況に立ち至っている。

 他国の例では、差別事例を刑事裁判で処理する場合、民事処理にゆだねる場合、国内人権機関の準司法的機能で対応する場合など、対応手段はさまざまである。しかし、その前提として、差別が違法であることを担保する法制度は作られている。いずれの場合でも、国内人権機関は、実効的な差別禁止措置を行政府に対して提言し、実施させ、それを社会に向けて教育・広報するという責務を負っている。差別事例に対して直接的な関与をするのか、それとも実効的な措置を提言する機能を強化するのか、それは政策的な選択の範囲である。

 既存の国内法システムに閉じこもった立場からは、こうした発想は生まれて来にくい。国内人権機関と差別禁止法は「鶏が先か、卵が先か」という問題かもしれないが、いずれにせよ、現在の国内法システムの殻を破ることが求められているのである。

改憲への動きの中での人権

 自民党による改憲案が発表され、大きな話題を呼んでいる。この改憲案にも、独善的な国内法システムに閉じこもる態度が強く表れている。

 国際的な人権基準には、絶対的権利と相対的権利の区別がある。表現の自由は相対的権利の代表例で、これは他の権利との調整が一定の場合には許される。その一方で、拷問禁止などについては、絶対的権利として他の権利との調整をおこなう余地は認められていない。その理解があれば、日本国憲法の第36条の拷問の禁止について、「絶対に」という文言が付されている理由は明らかだろう。しかし、自民党の改憲草案では、この「絶対に」という文言が削除されている。これが意味するのは、拷問禁止を国際基準に反して相対的権利と規定し、場合によっては調整を可能にするという態度である。

 また、権利の調整に際して用いられる「公共の福祉」の概念を「公益および公の秩序」と言い換える点も懸念されている。日本の「公共の福祉」の概念はあまりに曖昧なために、各条約機関からは立法による要件の具体化が勧告されている。前述した表現の自由との調整の際の基準のようなものを、明示して立法化するべきという内容である。しかし、自民党の改憲案は、これを政権の恣意によって左右し得る「公益および公の秩序」という概念に置き換えることによって、人権を制約する余地を大幅に増やした。まさに国際的な潮流に真っ向から対立する考え方である。

 改憲案の矛先はさらに、最も基本的な条文の一つである第97条に向けられ、その削除までも提案する。

「第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

この条文は、国内法的に定義された基本的人権を、人類的な価値とつなげ、国際人権基準に記された権利と同等のものとするところに意義がある。ほぼ同内容の第11条との相違点はそこであり、憲法を頂点とする国内法システムが、それにとどまらず歴史的なつながりを世界と共有していることを示している。まさに、国内法システムのドグマに沈む危険性に対する楔の役割を、憲法前文とともに果たしているのである。これを削除するということは、人権概念を国際的な人権保障体制から切り離し、為政者が恣意的に左右できるものとする態度に他ならない。

 このように、これまでも強力だった人権概念の国内法システムへの閉じ込めと、人権に関する孤立的な態度は、現在の政権与党の改憲案の議論の中では、より助長され、加速することと思われる。実際に改憲が実現するかどうかに拘わらず、こうした態度は政府の態度を国際社会の中でより孤立化させるだろう。

 2007年、当時の伊吹文明文部科学相は、自民党の長与支部大会で、「日本は、これまで個人の自由を重視しすぎた。バターは栄養がある大切な食べ物だが、毎日バターばかり食べていると日本は「人権メタボリック症候群」になる」と述べたと伝えられる。近代社会を成り立たせ、為政者の恣意から人々を守るために幾多の試練に耐えてきた人権という概念の本質を、全く見誤った人物が閣僚となっているという事実を示している。しかし、このような感想は、依然として政府や政権党の間では蔓延しているようである。その反映が、国際人権基準が直接に影響する経路を排除して、国内法システムのみに閉じこもろうとする態度だと言えるかもしれない。冒頭に紹介した、形式的に法的拘束力にこだわって勧告を無視するという態度も、同じような精神構造を示しているように思われる。

 憲法第98条第2項は、国際人権条約の「誠実な履行」を義務付けている。それを考えれば、正当な理由なく人権諸基準を含めた国際人権システムの国内実施の努力を怠った場合には、違憲となる可能性もあり得る。国際人権基準のシステムとの連携を切断し、国内法システムの内部に閉じこもった鎖国状態を作り上げている日本政府を再び国際社会に出会わせるためには、日本の社会に住む人々が自らの力を発揮し、声を上げ続けていかなければならない。今日、自分たち一人一人の声が、これまで以上に重い役割を担っていると思う。

寺中 誠
(東京経済大学教員/
元アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)

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