「治安悪化」というパニック―人権保障が果たすべき役割―マスコミ市民460号(2007年5月) 悪化していると言われる治安日本社会では、今、治安の悪化が叫ばれている。人びとの間で「不安」を口にする声が日増しに高くなり、ある調査によれば八割が治安が過去よりも悪化したという感想を抱いているとのことである。また、ここ数年、警察の検挙率が落ちているから、というのも治安が悪化していることの根拠として語られている。 しかし、統計上は、その解釈には疑問が残る。現在の日本社会の中での犯罪の状況は、数字としては過去と比べて特に悪化した形跡はない。被害者の数や起きた結果から見ても、むしろ昔より減少している。検挙の実態を表す検挙人員は、ほぼ一定しているかやや微減という傾向が数十年続いており、検挙能力がとりわけ落ちたという状態にはない。逆に警察による犯罪の認知の件数が、近年、劇的に増えており、それが母数を引き上げる形となって検挙率が下げられているのである。となると、警察による認知件数がなぜ跳ね上がっているのか、という点のほうがもっと注目されなくてはならないはずである。 警察による犯罪の認知件数が増加している背景には、いろいろな事情が重なっている。まず、急激な認知件数の増加は、ほぼ今から十年前、九〇年代末から起こっている。そして今から五年前の二〇〇二年ごろにピークを迎えている。ちょうど警察内部で、犯罪に対する記録方式が変わり、被害の申告や通報を、細かく記録するようになった時期に当たる。そしてまた、これらの時期は、世間での犯罪事件に対する関心が高まった時期と重なっている。有名な犯罪事件が大きく報道されることで、社会の中の犯罪への不安感が醸成されたという側面が強い。 これは、別の考え方をすれば、世間が、犯罪などの行為に対して、これまで以上に敏感に反応するようになったことを表している。これまで以上の関心を示して、通報が行われるようになれば、警察が把握し認知する犯罪の件数は必然的に増える。つまり、治安の実態というより、世間一般の人びとが犯罪に対して抱く関心の度合い、別の観点から言えば、許容度の変化を表す数字だともいえるのである。 こうした状況を、治安に対する不安感が蔓延している、という面と合わせて考えると、現在の日本社会は、実態からはむしろかけ離れて、メディアの報道などに過度に依存しながら、「犯罪」に対する恐怖感によってつき動かされているということもできるだろう。実際、治安の悪化を口実として、取り締まりや厳罰措置などが次々と呼び込まれようとしている。しかし、本当に厳罰化は治安回復にとって有効なのか、とここで考える必要がある。 厳罰化で治安は回復するのか「治安の悪化」という状況が一種実態からは離れた認識である以上、厳罰化などの措置で治安回復という効果が表われるということはそもそも考えにくい。しかし、それでも刑罰は犯罪を抑止するためのものだ、という理解はそれなりの支持を得ているように思える。具体的には、刑罰には、その当該犯罪者を更なる犯罪行為から遠ざけるという意味での抑止効果と、世間一般に犯罪は割りにあわないということを示してみんなを犯罪行為から遠ざけるという意味での抑止効果の、二つの効果があるといわれている。その観点から言えば、有効な措置が講じられるのだから、治安の回復に資するということになるのだろう。 しかし、もっと考えておかなければいけないのは、例えば「犯罪」というラベルを貼ることの効果の面である。刑罰などの措置が発動することで「犯罪」という地位が明確化され、むしろそこでは、「犯罪」という現象への世間の注目は増すのである。敏感に対応すればするほど、見つけ出される「犯罪」行為は増えることになる。結果として、治安が悪化している、という認識のほうが強くなってくるはずである。 厳罰化が、たとえば刑期の長期化などに帰結するとなると、さらに事態は複雑である。刑期が長引くことになれば、当然刑務所人口は増えることになる。そのこと自体が一種治安悪化のバロメータにされる。その一方で、過剰収容状態が出現し、十分な処遇が提供できないまま、改善・社会復帰の効果が上がらないなどの様ざまな問題が噴出することにもなる。厳罰化が進行するような社会では、当然出所者に対する目も厳しい。排除された出所者が、安定した生活を得る機会も減ることになりかねない。つまり、厳罰化はかえって治安の悪化を加速するのである。 厳罰化のシンボルとしての死刑2000年以降、死刑判決の数が急激に増加している。治安悪化や犯罪への世間の関心が高まったのに合わせるかのように、第一審での死刑判決の増加が起こり、その後二審、最高裁での死刑判決の増加につながっている。そして、2007年初頭、ついに死刑確定者総数が百人を突破する事態となった。日本は、年間の執行数こそ極端に多くはないものの、毎年死刑を執行している世界でも数少ない国の一つである。つまり、死刑存置国とされる国ぐにの中でも、死刑執行が恒常化している国は少ない。死刑の存廃についての議論をひとまず置いたとしても、日本がこのような形で死刑という制度にこだわるのは、かなり特殊な例だということができるだろう。その日本で、ここ数年、死刑判決が増えているのである。 死刑の適用が増加しているのは、「治安が悪化している」という感覚が蔓延しているのと無縁ではない。なぜなら、死刑が適用されるような殺人事件などの数そのものは、被害者の数などを見ても、ずっと減少傾向にある。日本は世界でも、殺人件数が最も少ない国のうちの一つである。増えているのは、むしろそうした事件の報道数である。それはとりもなおさず、社会が事件に敏感になっているということを表している。そして、それを背景として、求刑や判決などでも、死刑の適用への舵が切られていると見るべきだろう。 だとすれば、日本社会における死刑制度とは、厳罰化のシンボルそのものである。そして死刑の適用が増えたことをもって、「治安悪化」という感覚を加速することになるだろう。厳罰化は、犯罪抑止のためというよりは、世間に蔓延する治安悪化の感覚を再確認するための手段として、政策的に利用されることになる。 刑罰は公権力が直接発動するものであるから謙抑的でなければならない、というのが従来の刑法の常識だった。そのための安全装置として、人権保障が講じられたのである。しかし、現在の厳罰化の傾向が示すのは、死刑を頂点として公権力の発動をむしろ奨励しようという流れである。人権保障という安全装置が骨抜きにされるようなことがあれば、その危険は、一般に考えられているよりもはるかに大きい。 誰のための「治安」か?最低限の最後の砦としての人権保障が、今、「治安悪化」への対応策の必要性の名の下に弱められようとしている。「治安」をキーワードとして、様ざまな例外措置が人権保障の外側に作られようとしている。昨年成立した入管法の改訂も、「テロ」対策を口実に入管当局による恣意的な選別を認めている。また、「テロ等謀議罪」と名称を変えようとしている共謀罪法案も、当初、条約が求めてた組織犯罪対策からは徐々に離れ、今や公然と「反テロ」法としての顔を見せはじめており、テロ対策の名の下に、犯罪の実行行為以前の共謀段階にまで処罰範囲を拡大しようとしている。さらに、14歳未満でも少年院への収容を可能にしたり、ぐ犯(刑法に触れる行為をするおそれがある行為)の危険性があれば警察による捜査を可能にしようとする少年法の改訂案も、「治安」を切り口として、人権保障という安全装置を弱めようとするものである。 一方で、この間の政府の閣僚などによる相次ぐ不適切発言は、当局者たちがこうした人権保障の役割を理解していないことをうかがわせる。特に伊吹文部科学大臣が人権をバターに例え、「摂りすぎるとメタボリック症候群になる」と発言した件では、閣僚や首相自身が、「人権」の役割も自分たちの責任も理解しておらず、むしろ邪魔なものとしか思っていないという本心を見せ付けたと言えよう。 そのような下地の上で「治安」が叫ばれる状況というのは何を示しているのだろうか。そこには、人権を基調とした理性的な対応を講じる余地はほとんどない。むしろ、人権は敵視すべきものであって、非常事態に対しては手段を選ばないという恣意的な公権力の態度が見え隠れしている。「治安回復」は、実際に達成すべき目標というよりは、それを口実にして、「人権」という公権力に対する制限機能を邪魔者として排除するために使われているとすらいうことができる。 こうした動きは、おそらく日本一国にとどまる傾向ではない。現在の世界が陥っている危機の一環なのだろうと思える。9.11やそれに続く「反テロ戦争」、グアンタナモ基地での拷問などとも関係があるだろう。しかし、人権に対する無理解で塗り固められた日本の反応は、そうした中でもかなり特殊だといわざるを得ない。今、日本の社会に必要なのは、公権力の制約原理として成り立ってきた人権保障という概念に今一度光を当て、それに基づいた冷静な刑事政策をしっかりと立て直すことに他ならない。 一種のパニック状態の中で次々と雑多な統制手段が導入されるような状態ではなく、人権が守られることこそが、本来、現代の社会が目指した成熟した社会だったはずである。今ほど、そうした見識が社会全体に問われているときはない。 |
|