不安感で加速する死刑制度への傾斜「アジェンダ」24号(2009年3月15日)アジェンダ・プロジェクト 増え続ける日本の死刑2000年以降、日本では死刑の適用が急増している。第一審の死刑判決が2000年から増え始め、それにつれて第二審での死刑判決が増加、そして最後に最高裁の死刑判決が2004年を境にして急増する。死刑執行数も2007年の9人、そして2008年の15人と、ここ数年の年2、3人の死刑執行から大幅な増加を示している。 日本では、1989年から1993年の3年4か月間にわたって、事実上死刑の執行停止が実現していた時期がある。その直前にはかなりの期間、執行数が0か1といった時期があり、93年の執行再開以後やや増えはしたものの、90年代の後半に入ると再び件数が減少していた。そうした事情を考え併せると、最近の増加傾向は、これまでとは異なった傾向を示していると考えられる。 その一方で、この死刑の適用や執行が増えつつあるという動きは、死刑が適用される犯罪である日本の殺人事件の件数とは全く連動していない。日本の殺人件数は、戦後、1954年の3081件をピークとしてそれ以降はほぼ一貫して減少傾向にある。1991年には最少の1215件となり、それ以降も大きな変化はないままに統計上の数値は推移している。この最少の値を示した1991年が事実上の死刑執行停止期間の最中であったことは、もっと注目されてよいかもしれない。それにもかかわらず死刑執行は再開され、殺人の認知件数に特段の変化が見られないまま、死刑の適用数と執行数のみが格段に増加するという傾向を示すこととなったのである。 このように、死刑の適用が増えたこととそれが処罰するべき犯罪の件数との間になんら関係がないということは、死刑という刑罰を執行することによって将来の犯罪を抑止しているという理屈が、ここではまったく当てはまらないということを示している。多発する凶悪犯罪に対抗する手段として死刑が適用されているわけではない。そのような犯罪は増加していないからである。死刑があるから将来の犯罪が抑制され少数のままでとどまっているということでもない。死刑の適用が増加するのは、殺人事件の認知件数が少なくなった時期からほぼ10年を経た後なのである。 現在の刑罰システムを覆う厳罰志向増加傾向を示しているのは死刑だけにとどまらない。この10年のうちに、無期囚の年末在所の人数が大幅に増えている。1998年に968人だったのが、2007年末には1670人とほぼ倍近くに増えてきているのである。また、1997年の新規無期受刑者は33人だったが、2003年には99人、翌2004年は125人、2005年は119人、2006年は99人と、ほぼ3倍の規模に達して推移している。これも、死刑の場合と同様、実際の犯罪の認知件数に大きな変化が見られないにも関わらず、受刑者数だけが急増している。ちなみに、新規受刑者数の総数は、同一期間において2万人台で推移しており、大きくは変わっていない。したがって、ここ数年で起こっているのは、新規受刑者の中で無期刑受刑者の占める割合が大きくなっているということであり、それは全般的に刑の長期化が図られていることの反映である。 刑務所の1日平均収容者数は、1990年代前半には4万人程度だったのが、2007年にはほぼ7万人に達している。しかし、この現在の刑務所の過剰収容状態は、新たな受刑者の増加によるのではなく、受刑者の刑期が長くなり、施設から出所しにくくなったことによるものである。無期囚に対する仮釈放制度はほとんど機能しておらず、年末の無期受刑者が1670人だった2007年は、仮釈放者はたった3人であった。(2008年における速報値による)しかも、その平均在所年数は31年を超えており、事実上、無期刑が受刑者を終身刑務所に収容する刑罰となっていることを端的に表している。 これら全体が示しているのは、現在の日本社会を取り巻く厳罰化の傾向である。実際の犯罪事実の変化があまり見られないにも関わらず、それに対する反応として、刑罰を厳しくする方向に向かっている。死刑の増加というかたちで表れているのは、実は現在の刑罰システム全体が示している傾向の象徴的な氷山の一角なのだということができるだろう。 とりまく不安と刑罰への期待社会の中にある不安を治安への欲求に転化させるという政策は、古今東西を問わずよくみられる手である。最近、白書や報道発表などでとみに強調されている「体感治安」も、そうした不安感を治安欲求や処罰欲求につなげる、一種の媒介概念として機能していると考えられる。 2006年に実施された内閣府の調査(*)によれば、現在の治安が悪くなってきている感じる人びとの層は、84.3%に上るという。特に大都市部においてそうした傾向が顕著だとされる。また、その原因について、「来日外国人が増えたから」、「地域社会の連帯が希薄となったから」といった理由をあげる層がそれぞれ約半数に上っている。具体的に不安になる犯罪については、「すり、ひったくり」「自宅にはいる空き巣などの被害」「悪質な交通事犯」などをあげる層が約半数となっており、日常的な生活にかかわる部分での不安感が強いことをうかがわせる。したがって、ここでは、「よそ者」が増えたことにより従来の地域社会が崩壊し、日常的な生活レベルでの危険が増しているという感覚を持つ層が増加しているという見方が成り立つようである。犯罪の「低年齢化」や「残虐化」などを強調する感覚も強調されている。 * 治安に関する調査(内閣府)2006年 その一方で、別の調査(*)によると、多くの人びとが日本全体の犯罪が増えていると感じているにもかかわらず、自分たちの身近な地域については犯罪の増減に大きな変化を感じていないことが指摘されている。実際、犯罪被害にあった数については、ここ数年顕著な増減は見られない。これは、公式の犯罪統計の動向を見ても、確認されている事実である。 * 浜井浩一(研究代表者)「治安・犯罪対策の科学的根拠となる犯罪統計(日本版犯罪被害調査)の開発」2007年3月31日(紹介) 後者の調査によれば、多くの人びとの認識は、日本全体のモラルが低下していると感じており、それを主に若者のモラル低下のせいであると考えているようである。その上で、そうした状況が生じた原因として家庭や親のしつけに問題があると考え、特に若者に対する厳しい処罰を通じてそれを是正するべきであると考えていることがわかる。この層に属する人びとは、刑罰を重くすれば犯罪は減ると信じており、死刑が必要であるとも考えている。 正確に見るならば、治安悪化の主なターゲットとされているのは、身近な犯罪であり、家庭の問題である。しかし、その解決策として志向されているのは、主に重大な犯罪に対して発動することが予定されている公式の「刑罰」システムであり、その究極の形態としての死刑である。ここでは、明らかに、具体的な不安感の払しょくをより強力な権威としての国家刑罰権にゆだねようとする態度が見て取れる。身近な犯罪のための具体的な防止措置よりも、まず若者に対する厳しい処罰を要求し、強力な権威を打ち立てることのほうに重点が置かれている。そうした方向の発想に流れるのには、一つには自分たちが本当には具体的な被害にあっていない、ということもあるだろう。一般的な不安であるがゆえに、具体策よりもむしろ一般的な対応策が採られることを志向し、そのためのより強力な権威を求めるという、論理構造を示しているのである。 二つの調査を考え併せると、一般的な社会不安が治安回復のための処罰欲求につながっていく様子がよくわかる。確たる証拠によるのではなく、漠然とした感覚を通じて、身近な社会での不安が厳罰化を生む感覚に育て上げられているといえるだろう。 死刑制度は、まさにこうした感覚に基づく厳罰化の主張が依って立つ象徴的な存在であるといえよう。死刑制度については、2004年の基本的法制度に関する調査(*)で「場合によっては死刑もやむを得ない」とした人の割合が81.4%に上っている。そのうち、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた人の割合が54.7%、「死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える」を挙げた人の割合が53.3%となっている。したがって、死刑は「凶悪犯罪」に対する処罰という意味から意識されているように思える。しかし、これまでの調査を踏まえて考えると、実際に問題とされているのは死刑と直接的に関わる「凶悪犯罪」というよりもむしろ、漠然とした治安に対する不安感を払しょくするために、多くの人びとが死刑という刑罰形態に期待を寄せているという構造になっているのではないか、と思われる。 * 基本的法制度に関する調査(内閣府)2004年 国家への期待と裁判員制度裁判員制度の対象事件が、死刑が含まれる重大事件に限られたことで、裁判員が死刑と向き合うことに一定の注目が集まっているように思われる。しかし、死刑を持っている日本で暮らしているかぎり、一般の人びともすべて、好むと好まざるにかかわらず、例外なく死刑制度の一端を担っており、処刑される人びとの命を奪うことに関与させられているのである。みんなが死刑の問題に直面していることを、本来的にはすべての人びとが意識していなければならない。裁判員が死刑に直面することを特別視しすぎると、このような視点がともすれば失われてしまう。その危険性には、十分に留意する必要がある。 2005年の裁判員制度に関する調査(*)では、裁判員制度に参加したくないとする人の割合は、70%に上っている。その理由は、「有罪・無罪などの判断が難しそうだから」、「人を裁くということをしたくないから」が主だった。死刑制度に対する高い支持率と、裁判員制度への参加の忌避感とは明らかな対照を成している。単純化すれば、死刑を求めつつ、自分たちはそれに関与したくない、という態度を示しているとも指摘されかねない。しかし、ことはそれほど単純ではない。 * 裁判員制度に関する調査(内閣府)2005年 裁判員制度については、どうやら多くの人がリアルな事件、事実に向き合うことに対して拒否感を示しているように思われる。だとすれば、皮肉なことだが、一般的な不安の払しょくのために厳罰化や死刑制度への期待を示すこととは、むしろ一定の親和性があるといえるかもしれない。なぜなら、ここで問題になっているのは、具体的な事件や危険性というよりも、具体性には乏しいが人びとが獏として持っている不安感の払しょくである。そのようにあいまいに持っている感覚を、具体的な事件、事実に無理やり向けさせられるのは、一種の無茶な強制のように感じられるのも無理はない。 その上で、「選ばれたからにはやるべきだ」という倫理的な態度を示す人びとの層もかなりの程度存在する。一般的な漠とした不安感に対し、自分から権力作用の一端を担うことによって厳罰を加え、責任を果たすべきだ、という態度だが、これは実は危うい態度でもある。なぜならほとんどの人は、刑罰が実際にどのように進められるのかという具体的なイメージを持っているわけではない。死刑に関する情報がないことはもちろん、一般の刑務所の中での処遇の現状についても、ほとんど知らないままである。つまり、裁判員としての判断の結果となる刑罰の実態について、ほとんど何の情報も持っていないのである。にも関わらず、刑罰の判断に主体的に加わることを「責任ある態度」とするということは、むしろ、国家刑罰権をふるう一端を担うことそのものが目的となっていると見るべきであろう。つまり、「市井の人びとの日常感覚を反映する」という裁判員制度の趣旨とは異なり、市井の人びとに国家としての視点を持たせた上で、超然とした権力の一員としてふるまうことを要求していることに他ならなくなってしまう。このような「倫理的態度」を持つ人びとには、いま一度制度の趣旨に立ち返って、リアルな事件、事実に向き合うための態度を身につけることができるように促すことが必要になるだろう。 裁判員制度が本来必要としているものは、具体的な事実の理解に向けた日常的な感覚なのである。その意味では、責任感を強調することとは、相容れない部分がある。 世界的に孤立している日本の死刑死刑制度がある、ということは、世界的に見れば実は常識ではない。すでに世界の多くの国ぐにで、死刑制度は廃止されている。2009年2月現在で、全面的な廃止国が92、通常犯罪に関する廃止国が10、10年以上死刑の執行がない事実上の死刑廃止国が36を数える。合わせて138カ国が死刑廃止国となっており、死刑存置国は59カ国にすぎない。しかも、このうち、実際に死刑を執行したのは、2007年で24カ国に限られている。死刑を存置し、恒常的に死刑を執行している国は、ごく少数なのである。 死刑を存置している国として知られている米国は、州ごとに異なった法制度を持っており、その中で米国の全処刑数の83%を南部諸州が占め、さらにその半分以上、結果的に全体の半数近く、がテキサスとヴァージニアの二州によって占められている。また、米国では連邦最高裁が死刑を制限する方向での判決をしばしば出しており、死刑適用に対してある程度の抑制傾向が表れている。 その点は最大の執行国とされる中国でも同様で、死刑の再審査制度を導入したことにより、全体の処刑数が激減したと言われている。中東諸国などでも、現在は死刑の適用には抑制がかかっており、世界的に見て死刑制度も、執行も明らかな減少傾向にある。 そうした動きを受けて、2008年5月の国連人権理事会での普遍的定期審査(UPR)や10月の自由権規約委員会審査において、日本政府は、死刑廃止に向けた具体的な段階を踏むべきであるとする勧告を受けた。しかし、日本政府は、こうした動きに対してむしろ反発し、死刑を維持するのは、日本独自の文化や事情によると主張して孤立感を深めている。その際、日本政府が頻繁に援用しているのが、上述した世論調査の結果である。 すでに検討したように、世論調査の結果を詳細に検討するならば、世論は死刑制度を支持しているというより、現在の自分たちを取り巻く不安感の払しょくを望むあまり、漠然とした象徴的な存在としての死刑制度に期待していることが明らかである。現在の日本政府の態度は、むしろそういう一般の人びとの不安感に基づきながら、既存の国家制度への支持をひろげようとしていると見ることもできる。死刑制度への支持は、死刑制度自体が漠としたイメージに取り巻かれているものであることから、最も効果的な旗印となっていると思われる。 現代的な新しい形での貧困や、不安定な経済情勢もあって、社会の中には不安感が高まっている。人は、犯罪事件にかかわる様ざまな被害に合う危険にも、また自らが犯罪を行う状態に陥ってしまう危険にもさらされている。そうした不安感を払しょくするものとして死刑や刑罰一般に期待することは、二重の意味で危険である。まず、それは国家の刑罰という権力作用に対する無条件の従属を意味する。人びとは、十分な情報も持たないまま、刑罰に対して無批判的な支持を持ってしまうことになる。そして、もう一つの危険は、結局のところ、社会の中の弱者に対し刑罰を科すことにより事件として終結させてしまい、社会の中の真の問題の解決を遅らせることになるという点である。 かつて、刑法思想家たちは、刑罰は社会の問題を解決する際の、最後の手段にすぎないと指摘した。社会政策や他の改善措置こそが優先されるべきであって、強力な国家権力を発動せざるを得ない刑罰システムを用いるのは最大限に謙抑的でなくてはならない、という原則である。しかし、現在の刑事司法の動きは、「世論」を口実として、むしろ処罰の積極化を推し進めていると思われる。 司法改革においても、まずは、社会政策を充実させる方策をとりつつ、死刑のような強力な刑罰手段は、社会の中の問題解決を促進させる観点から、ただちに廃止するか、少なくとも廃止が望ましいことを公にするべきである。2008年10月の自由権規約委員会の勧告は、まさに、そのような時宜にかなった内容となっている。日本政府としては、国際的な義務に従い、勧告の完全実施に向けた措置を、ただちに講ずるべきである。 |
|