Political Criminology

BBS運動

後藤弘子編「少年非行と子どもたち」(1999年、明石書店刊行)所収


刑事政策の教科書などでBBS運動を調べると、たいてい、公衆参加とか社会内処遇における民間協力という欄で紹介されている。まず保護司制度の説明があり、その他の民間協力組織の一つとして、という扱いである。

間違っているわけではない。実際、非行防止を訴えるとか、「ともだち活動」というのは、刑事政策的には少年保護への民間協力活動と捉えることができるだろう。社会内処遇に対して、地域社会の立場から協力するというのはBBS運動の一つの重要な面である。しかし、それではどうもすっきりしないというのも本当なのだ。

「ともだち活動」だ「グループワーク」だと専門用語然としたことを言っていても、結局のところBBSの会員がしているのは、少年との肩を張らない、普通の付き合いでしかない。少年たちと一緒にゲームをしたり、あるいは少年施設を訪問して一緒にご飯を食べながら「だってえ、太っちゃうもん」と訴える子どもたちと普通に語り合う日々。ところがそれが彼らにとっては、大変に貴重な機会となる。そこにBBS運動の意味がある。

保護司のように地域社会の立場から保護観察業務を担うということでもなければ、更生保護婦人会のように側面から支援するというものでもない。実際に身体を動かして少年たちと付き合う。しかし、そこには保護観察とか、社会内処遇といった制度では表現できない、もっと肩肘張らない関係というものがある。少なくとも運動が目指しているのはそれだし、そこに自発的に関わっていこうというボランティア運動こそがBBS運動なのだ。

日本のBBS運動は、1946年、まだ敗戦後間もない京都に起こったとされている。少年非行の戦後第一のピークとされるのが1951年だから、まさにその混乱期の最中である。困っている少年たちを眼前にして黙ってはいられないと声を上げた京都の学生たちに、当時の京都少年審判所の所長だった宇田川潤四郎氏と職員の徳武義氏が結成を呼びかけたとされている。「BBS運動こそ日本の青少年問題解決の一つの鍵である」と信じ、立命館大学、医大などの学生が集まり、1947年2月22日に「京都少年保護学生連盟」として正式に発足した。そして、少年施設への巡回訪問や京都少年審判所が担当する少年たちと姉や兄のような立場で関わっていく活動を展開し、注目を集めた。

その後、運動は各地に広がる。石川県の少年補導員連合会、大阪の少年愛護学生同盟、東京の少年保護司会青年部というように名前は様々だったが、徐々にBBSということばが全体の名称となっていく。1949年に犯罪者予防更生法が成立し更生保護の体制が整ったことを受けて、1950年には全国BBS代表者会議が開催され全国BBS協議会が発足。これが現在の日本BBS連盟の前身である。各地域に会員による地区会を置き、都道府県単位で連盟を構成し、地方管区ごとの連盟、全国組織とつながる現在の組織体制もこの頃に確立した。

BBSという呼び名自体については、運動の当事者は当初から意識していたようだ。BBSの範となったのは米国で1904年に発足したニューヨークのBB運動とBS運動の二つの運動である。当時ニューヨークの少年裁判所職員であったアーネスト・クールターという人物が呼びかけ、それに応じた教会の青年たち40人が、一対一で少年に付き添うという形で支援したのがはじまりとされる。このスタイルは「ワンマン・ワンボーイ」と呼ばれ、日本のBBS運動の「ともだち活動」のモデルとなった。京都少年保護学生連盟の初代委員長であった永田弘利氏は、最初に宇田川所長と徳氏と会った際、最初に、まずこの運動についての詳しい説明を受けたと述懐している。少なくとも少年審判所の立場から運動の創設に関わった人々の念頭には、当初からモデルとしてこの運動があったのである。

しかし、石川や東京で、それぞれ「補導員」や「少年保護司」といった呼称が使われたことから分かるように、市民運動という側面よりも、保護司制度や刑事政策への民間協力という文脈のほうが強く意識されていた側面もある。日本BBS連盟が創設され、全国組織となり、保護管区ごとの組織が出来上がっていくという経緯も、ボランティアや地域社会にベースを置く運動としては少々異質である。更生保護の主務官庁である法務省保護局を中心として、社会内処遇への民間協力を進めようという意図が存在したことも重要な要素だったろう。しかしそうした政策化にも関わらず、実際的には保護観察所と連携しつつも、BBS運動は保護司のような準国家公務員化への道を辿ることはなく、青年たちが自主的に実際の活動を少年と同じ目線で担うというボランティア運動として発展していった。

BBS運動は60年代にはいって人数的にも大きく拡大し、1966年には会員1万人を越えるにいたる。しかしその時期をピークとして、その後は減少傾向が続いている。少年非行の戦後第二のピークと考えられているのが1964年から70年台初期にかけてだから、ちょうどこれと軌を一にしている。1970年代以降の日本の青年たちの生活スタイルや価値観の変容、都市化の進行による地域社会コミュニティの崩壊といった要素も関係しているだろう。1998年現在の全国の会員数は6123人、地区会数は579会である。性別では男性が6割。年齢は男性の場合には30代が中心で高年齢化が進み、女性は20代学生が多い。実に女性会員の30%以上が学生で、会員数全体に対する学生の割合は約20%程度といわれる。こうした学生を中心とした地区会活動もおこなわれており、いわゆる学域、広域BBSとして通常の地区会とは性格の違った活動をしているところもある。

BBSの活動には、大きく「ともだち活動」と「グループワーク」、「非行防止活動」と「研さん活動」があるとされてきた。最近、この「ともだち活動」の概念が若干変わりつつあり「グループワーク」と「ワンマン・ワンボーイ」とを合わせて「ともだち活動」と呼ぶようになってきている。その他にも、社会参加活動の一環で保護観察中の少年が福祉施設を訪問するのに付き添ったり、少年院等の施設訪問、あるいは学校や親からの直接の依頼で活動することもある。しかしそうした中で、BBS運動の代名詞とも言えるワンマン・ワンボーイ式の「ともだち活動」の件数は、1970年の2075件をピークにその後著しく減少し、一昨年はわずかに266件にまで落ち込んでいる。これには、保護観察官、保護司とBBS会の関係が云々といった問題以上に、現実の社会情勢の変化や、少なくとも社会的なニーズがかつてBBS運動が普及したときとは大きく変わったことが影響していると見るべきだろう。少年非行の戦後第一の波と第二の波では、会員数、活動数ともに、それぞれ連動していたBBS運動が、第三の波以降はその長期減少傾向に歯止めがかかっていないのである。

しかしそれでも、依然として、BBS運動が掲げる「少年たちと同じ目線で、ともだちとして付き合う」というテーゼは生きている。それは関わる人数の問題ではなく、また処遇効果といった問題とも直接関係はない。BBSは、あくまでも少年たちの「ともだち」であり、兄や姉なのだ。処遇に関与するケースワーカーでも、政府の施策への民間協力者でもない。一介の友人である。その意味では、BBS会員の高齢化こそが憂慮すべき事態だし、BBS会員の中でさえ世代断絶が進んでいることは、大きな運動の阻害要因だと言えるだろう。少なくともBBSに関する限り、活動の中核は学生たちをはじめとした若年層が担い、ボランティア活動としての側面を正面に据えるという体質を持つべきだと言えよう。

そうした状況に対して、BBS運動の側も決して手をこまねいているわけではない。1998年のBBS運動50周年を記念して「21世紀委員会」が設置され、最近のインターネットの普及などをばねにどのようにBBS運動を新しいメディアに載せていくかといったことが検討されている。旧来の組織的な枠を取り払う可能性を持つ動きであり、すでに全国各地の会員、地区会や道県連盟がインターネットを通じて横の情報交換をおこないはじめている。これが、一方で地域社会の運動として発展してきたBBS運動にどのような変化をもたらすのか、興味を呼ぶところだろう。また、いじめや不登校といった、これまでBBS運動としては主たる活動対象とは見られてこなかった部分への進出もはじまっている。設立から半世紀を経てBBS運動が今後どのような活動スタイルを開発していくのか。これからの少年問題を考える上で大きな可能性を秘めているかもしれない。

    【参考文献】
  • 中立祥光「BBS会員と保護観察官のはざまで」更生保護と犯罪予防 130号(1998.9)
  • 清水義悳「BBS運動の発展のために〜更生保護青年組織の育成と連携」更生保護1997.9
  • 「熱い思いは半世紀を超えて〜永田弘利氏インタビュー」更生保護1997.9
  • 宇田川潤四郎「家裁の窓から」法律文化社(1969年)
  • 中村金彦「BBS運動と実践活動」講座「少年保護」第三巻(1983年)
  • 中村金彦「BBS運動とその周辺の諸問題」犯罪社会学研究10(1985年)
  • 萩原康生「更生保護の協力組織」「日本の矯正と保護 第3巻保護編」(1981年)所収
  • 日本BBS連盟21世紀委員会「BBSにおける情報化の取組み(状況報告)」(1998年)

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