『読売新聞・歴史検証』(9-5)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第九章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作 5

中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国

 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。

留学生集合写真
1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子

 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。

「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」

 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」

 同時に鉛版から削除された五面の記事は、「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」という三段大見出しで、本文約八〇行である。これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。社説の題にも「惨害」とある。当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二~一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。


(9-6)九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視