第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第九章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作 4
「まぼろしの読売社説」の劇的発見!分散して資料を温存か
さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。
写真6
写真7
発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。
仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。
「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」
この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。くわしくは同書を参照していただきたい。何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。
「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」
田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八~一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。いわゆるリベラル派であろう。
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