『読売新聞・歴史検証』(6-8)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 8

シベリア出兵で「強硬論」の外相と「言論機関との小波瀾」

 満鉄総裁就任から二年後の一九〇八年(明41)、後藤は桂太郎内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁になる。一九一六年(大5)には寺内正毅内閣の内務大臣、つづいて外務大臣となる。

 後藤が外務大臣になったのは一九一八年(大7)である。この年の夏の盛り、八月二〇日には、シベリア出兵が実施されている。

 一九一八年という年は、本書ですでに記した本野子爵家支配の読売の終末の年でもある。胃癌に侵されていた本野一郎は、この年の四月二三日に外相を辞任したのであった。

 つまり後藤は寺内内閣で、はじめは本野一郎と閣僚の仲の内務大臣となった。ついで本野辞任の跡を継いで、その辞任の同日付けで外相に横すべりし、シベリア出兵の方針を決定して、軍船を送り出したのである。後藤はもとより対外侵略の積極論者であったが、内務大臣の期間中にかぎっていえば、自重論をとなえていた。ただし、その自重の内容は政治的調整の必要性にすぎなかった。アメリカが日本の独走を警戒していたことを配慮しただけである。国際的な合意は、その後、日本軍が主導権をにぎる「連合出兵」の形式を採用することで成立した。以後、後藤はむしろ、本野前外相に劣らぬ「強硬な出兵論者」の本音をあらわにしたのである。その間の事情は『シベリア出兵/革命と干渉一九一七~一九二二』(原暉之、筑摩書房)に詳しい。

 シベリア出兵の是非を争う言論戦は、まさに国論を二分するものだった。内務、外務と、ひきつづき閣僚の立場にあった後藤は、この時期、メディア操縦に秘術の限りをつくしたに違いない。台湾、満州の二大植民地を舞台とした合計一〇年の経験と人脈は、大いに生かされたことであろう。

 日本がシベリア出兵に示した熱心さは、国際的にも「進出の意図あり」との疑惑をかき立てたが、それを裏打ちする証言記録がある。後藤が最初の内務大臣の時に請われて内務次官を勤め、その後に自身も内務大臣となった水野錬太郎は、後藤の没年に追悼の意味で出版された『吾等が知れる後藤新平伯』(東洋協会)に、「後藤伯と予」と題する談話を寄せている。そこで水野は、後藤から「満蒙シベリア開発策」を示されたとし、つぎのように語っている。

「それは満蒙、シベリア方面に朝鮮人を扶植し、以て日本の経済的拡張の途をシベリア方面に開かれんとするのである。伯はこれについて具体的計画を立て、数字的調査までもせられたのである。その案の成るや、一日、田健治郎君、石塚英蔵君、内田嘉吉君及び自分の如き植民地経営に経験あり、意見ある人を自邸に呼ばれて、この調査の書類を示され、批評を求められたことがあった。のみならずその意見を加藤高明伯[当時の首相]に提示して、年々八千万円の支出を要求したのである」

 後藤はまた、すでに桂内閣の逓信大臣時代から、内閣擁護の記者団づくりを画策している。その際、後藤が目を付けたのは、関西の財界を背景資本として東京に進出していた朝日と毎日であった。『後藤新平伝』(3)には、朝日と毎日を中心に新聞全体の支配を企んでいた後藤の姿が、つぎのように描かれている。

「伯は大新聞の連盟によって、健全なる与論の作興に貢献せんとし、しばしば秘書の菊池忠三郎を下阪せしめて、大阪朝日新聞と大阪毎日新聞とを説かしめた。菊池の直接交渉したのは、大阪毎日新聞社長本山彦一で、本山から菊池に送った書翰七通がある」

 本山の書翰の中には、朝日と毎日が中心となって近畿地方の各紙をまとめた事実や、その二大紙の連合が各紙にあたえる影響が語られている。ここで使われている「大新聞」という用語は、かつての政論紙の「おおしんぶん」の意味ではない。現在の「大手紙」と同じ意味である。この「大新聞の連盟」に関する記述からだけでも、後藤新平の「新聞利用」の基本構想は、容易に読み取ることができるのではないだろうか。つまり、実に平凡かつオーソドックスな手法である。いくつかの有力紙をまとめて押さえることにより、新聞界全体を規制しようという中央集権的支配の狙いであった。

 朝日と毎日が輪転機の導入、高速化、巨大化の先頭を切っていた事情は、すでに本書で指摘した通りである。新聞業界の「生物学」的実態について、後藤ほどに鋭く先を読んでいた人物は、数少なかったのではないだろうか。その十数年後の一九一九年から翌年にかけて、朝日と毎日の連合軍が新参ものの大正日日を、ありとあらゆる手段で廃刊に追いこんだ事実をも、この際、想い起こしたい。

 後藤は、「新聞利用」を容易にする組織の名称まで考えていた。「新聞連盟」である。ただし、この後藤の構想の実現は、まだ時期尚早だったのであろうか。『後藤新平伝』(3)では、つぎのように記している。

「機遂に熟せずして、新聞連盟の事は中絶するに至ったのである」

 一九一六年(大5)に内務大臣になった後藤は、その翌年にロシア革命の余波を浴びることになる。いかにも宿命的な歳月のめぐりあわせである。『後藤新平伝』(3)には、そのものズバリ、「言論取締」の項目が現われる。その冒頭は、つぎのようである。

「当時内相として伯の苦心したことの一つは、言論取締の問題であった。けだし寺内内閣の成立した大正五年から翌六年にかけては、日本における社会思想の転換期であった。一方には戦時の好況により来る社会運動の抬頭有り、他方には欧米各国における民衆解放運動の影響あり。自然我国における思想の急激に変化し、従ってこれが取締の責任者たる内相として、伯は容易ならざる困難を経験しなければならなかった。殊に社会一般の民衆的大潮と、首相寺内並びに元老山県の保守思想の中間に介在して、伯の立場は、相当に苦しいものであった」

 後藤は、一九一八年(大7)四月二三日に外相になる。その直後、『後藤新平伝』(3)で鶴見が「言論機関との小波乱」と題する事件が起きた。

 外相に就任してまだ一か月にもならない五月一四日の夜、後藤は、地方長官会議に参加した長官一同を外相官邸に招いた。地方長官会議とは、当時、県知事などをすべて直接任命する権限を持っていた内務省が主催する会議である。おそらく、この五月一四日の会議を招集したのは、内相だった時期の後藤なのであろう。後藤は、この後にも山本権兵衛内閣で内相に再任されるが、外相時代にも内務省への院政を敷いていたきらいがある。

 後藤は、外相官邸における晩餐の席上、地方長官たちを前にして、国際情勢とそれに相応する国内での任務について、一席ぶち上げたのである。その演説のなかには、言論界批判とともに、明白に内相の縄張りに属する取締強化についての発言があった。

 この発言にたいして、外務省記者団の「霞倶楽部」が、後藤に抗議を申し入れた。ところが後藤は、「大臣の訓話に関し新聞記者より指図を受くべき筋合いなしと称して、頑として譲らなかった」のである。さらに記者団が抗議すると、後藤は、「外務省内霞倶楽部の部屋の使用を禁止し、かつ外務省の情報を一切、この霞倶楽部所属記者に与えずと告げた」のである。

「外務省内霞倶楽部の部屋」なるものは、日本独特の官庁お抱え記者クラブ制度の原型である。現在も続く「発表報道システム」の悪弊の根源でしかない。そこで後藤は、いわば飼い殺しの記者たちから「飼い犬に手を噛まれる」ような思いをしたご主人の立場で、怒って記者たちを追い出してしまったわけである。『後藤新平伝』(3)によれば、この抗争はますます激化の一途をたどった。もしもこのときに、日本の新聞記者たちが決然として立ち上がって取材源からの独立を宣言し、自前の記者クラブ建設をはじめていれば、日本の言論史にはいささかの変化が生まれたのかもしれない。しかし、残念ながらそれどころか、逆に、各社の幹部で構成する「春秋会」が出番を求め、霞倶楽部所属の記者たちは抗争の主導権を失ってしまったのである。

 仲裁者も現われた。結果は、言論圧迫の意図なしという後藤の弁明により、事態収拾ということになっている。しかし、『後藤新平伝』(3)に収録されている後藤の釈明演説によると、新聞記者といえども国家の指導監督の外に立つものではないとか、問題になった訓示の相手は指導的立場の官吏であるとかの趣旨が盛られている。後藤自身の主張としては、決して筋を曲げてはいないのである。


(6-9)治安維持法の成立と「反ソ・反革命的キャンぺーン」の関係