第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 9
治安維持法の成立と「反ソ・反革命的キャンぺーン」の関係
以上のような五月一四日の夜以降の「言論機関との小波乱」の背景には、八月二〇日実施されるシベリア出兵問題があった。さらにその八月以後には、シベリア出兵を当てこむ米の買い占めに端を発する米騒動が、富山の漁村から全国に広がった。
後藤は緊急に米騒動対策を進言しているが、言論問題についての基本姿勢は、つぎのようである。「言論機関の取締を厳重にし思想の険悪に向うを防禦すべきこと」
米騒動の直接的な原因は、まさに後藤自身が「強硬な出兵論」を張って実施したシベリア出兵にあった。ところが後藤はこのように、何らの反省の色も示さないばかりか、逆に居直って、この時は外務大臣なのに内務省の仕事に立ち入り、「思想の険悪に向うを防禦すべき」であるという側面に、論点をすりかえている。後藤の「進言」はさらに具体的に、以下のように厳粛に展開されている。
「言論機関すなわち新聞紙雑誌の取締は、当局の至難とするところ、しかも憲政治下にありて、最も尊重すべき機関なるは、もちろんといえども、現に、今次の騒擾に関する誇張なる記事報道が、如何に国民思想に悪影響をおよぼしたるかを見るときは、真に寒心にたえざるものあり。当局の取締にして、今少し早く、かつ厳なりしならんにはの遺憾は、誰人も直覚せざるものなかるべし」
シベリア出兵と新聞の関係は、本書でもすでに、陸軍による読売乗っ取りの動きなどを、いささか記した。朝日の方は東西呼応して、反対の論陣を張りつづけていた。
『巨怪伝』では、そのころ後藤に養われていた政治浪人の肥田理吉が、大阪朝日を米騒動の元凶とする報告を作成していたことや、大阪朝日と後藤とがまさに犬猿の仲だったという事実を指摘している。さらに重大なのは、つぎの証言である。
「大正五年に大阪朝日に入社した金親不二男によれば、白虹事件[中略]の裏には、後藤の大阪朝日に対する私怨がからんでいたという」
軍事的にみれば、シベリア出兵は完全な失敗に終わっている。その中途で寺内内閣は総辞職した。しかし後藤は、その後、シベリア出兵中にもう一度、山本内閣で内相に就任している。後藤は、いわば、さきの「進言」を、みずから先頭に立って実施しつづけたのである。後藤は、しかも、一九二三年に、中国にいたソ連の全権大使、ヨッフェを日本に呼びよせ、「後藤=ヨッフェ会談」と通称される私的会談を行い、これをのちの一九二五年に締結された「日ソ基本条約」への予備交渉につないでいる。後藤だけでなく、当時の日本の体制側指導者たちは、「ころんでもただでは起きない」したたかさを発揮したのではないだろうか。
というのはまず、以上のような居直りの延長線上で、国内的には「白虹事件」で東西の全朝日を屈服させ、状況逆転による「言論取締」の強化という、決定的な成果を挙げたことになっているからである。しかも、それ以上に重要なことは、日ソ基本条約の締結によって最後の北サハリンからの撤兵が完了する以前の一九二五年(大14)に、日本国内で悪名高い治安維持法が成立したという歴史的経過である。
この間の「言論取締」の実態は、それだけで一つの大研究を必要とするものであろう。とりあえず紹介しておくと、『日ソ政治外交史/ロシア革命と治安維持法』(小林幸男、有斐閣)では、この間に日本国内で展開された「反ソ・反革命的キャンペーン」の効果に注目している。その結論の要約は、次のようである。
「日ソ国交開始に先立って、一九二五年二月、突如提案された治安維持法が、余り大きな反対運動もなく成立した要因のなかに、国民大衆の脳裏になお根深く浸透していた『尼港事件』カンパニアによる反ソ・反革命の悪感情が底辺に根強く横たわっていたことを見すごすべきではなかろう」
引用文中の「尼港事件」とは、北サハリンの対岸にある港湾都市ニコラエフスクで、日本軍のだまし討ちにあって捕らえられていた革命派が、獄を破って逃亡を企てた際、市街に放火し、一部の日本人殺害を行った事件である。当時の日本の大手メディアは、前半の経過をことさらに無視し、「邦人全員虐殺」の主旨で数字的にも誇大な煽情的キャンペーンを展開した。同書では、その具体例を詳しく紹介している。
さらに歴史評価の土俵をひろげれば、「尼港事件」報道だけではなく、シベリア出兵自体が「反ソ・反革命的キャンペーン」の中心的活動だったのである。もちろん、当時の日本の支配層が、そこまでの計算を立てていたという意味ではない。だが、結果から見れば逆に、シベリア出兵という陽動作戦を展開しながら、それをテコにして、本命の日本国内における思想統制に成功を収めたという評価もできなくはないのである。
なお、シベリア出兵との関係からも、正力の読売乗りこみを位置づけておこう。
すでに何度もその年度を記したが、正力が読売社長に就任した一九二四年は、シベリア出兵の完全な撤兵が行われる一九二五年の前年に当たっていた。つまり、国際外交上の政策を評価するならば、日本政府のシベリア出兵強硬論は大失敗だったという議論が新聞紙上でも沸騰していても、不思議ではない時期だったのである。
たとえば、『日本戦争外史/従軍記者』(全日本新聞連盟)という題の、「戦後二〇周年記念」の巨大な豪華本がある。戦後も良いところの一九六五年に出版されながら、いかにも時代錯誤な文章が頻出するしろものなのだが、そこにおいてさえ、「欧州大戦とシベリア出兵」の項の最後の落ちは、つぎのようになっている。
「寄席の落語家をして、『シベリアシッパイ』といわしめたシベリア出兵は、皇軍の光輝ある歴史に、ぬぐうことのできない汚点を記した海外派兵であった」
落語の種にまでされた政府当局、またはその背後に控える権力中枢にとって、メディア対策は必死の課題だったに違いない。その最中に、松山は財界の匿名組合から、読売経営の地震災害復興費を拒絶されたのである。そこで『巨怪伝』では、つぎのように論を進めている。
「松山をさらに苦境におとしいれたのは、関東大震災後の第二次山本内閣の内相に後藤新平が就任したことだった」
なぜかというと、すでにのべたように寺内内閣の当時、後藤は内相から外相に転じてシベリア出兵強行を主張していた。その時に朝日は東西で、出兵反対の論陣を張りつづけていたのである。大阪朝日の鳥居素川、東京朝日の松山忠二郎、この二人の編集局長は相呼応して、後藤と鋭く対決した。『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』でも、「シベリア出兵反対では『西に素川、東に哲堂[松山の号]あり』といわれた間柄だった」としている。
すでに「白虹事件」の項で紹介した問題の記事の執筆者、大西利夫も、前出の『別冊新聞研究』(5号、77・10)で、当時の取材の模様を語っている。大西は総選挙のおりに、鳥居素川から「内相の後藤が大阪に来る。邪魔せい」と命令された。後藤の外出中に宿の部屋に忍びこみ、地元の警察部長などの訪問客の名刺を写しとっては、それを「いやがらせ」の記事にした。「泥棒ですわな」と語り、「かなりゆきすぎもあった」と認めている。
当時の読売には、すでに紹介したように、朝日を「白虹事件」で追われた残党が集まっていた。結果から見れば明らかなように、松山が正力から受けとった読売の経営権買収費には、松山自身をも含む「白虹事件」残党組の「追放料」が加算されていたことになる。
そこでたとえば、結果として再び追放の目に会った「白虹事件」残党組の一人、花田大五郎は、『別冊新聞研究』(2号、76・4)の「聴きとり」にたいして、つぎのように語っているのである。
「正力君は後藤新平から金をもらって読売を買ったんです。後藤新平はあれで復讐したようなものです」
(6-10)「大調査機関設立の議」の建白から東京放送局初代総裁まで へ