第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図
電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5
第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 7
満鉄調査部を創設した初代総裁への登竜門にわだかまる疑惑
後藤の「新聞利用」には、当然、自分自身の業績の「成功」売りこみがあったに違いない。台湾島民の反抗の鎮圧や産業開発で評価を高めた後藤は、八年後の一九〇六年、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に就任することになる。
満鉄は、日露戦争の最大の戦果であり、当時の日本の大陸侵略の最前線基地であった。その規模については、以後、敗戦までの四〇年間に、一万二千キロの線路が敷設されるにいたったことのみを指摘するにとどめる。この距離は、一九八〇年代の民営分割以前の国鉄の総路線の約半分である。
後藤が満鉄総裁に就任した経過についても、重大な謎、または疑惑が残されている。児玉源太郎大将を主人公とする小説『天辺の椅子』(古川薫、毎日新聞社)は、毎日が連載したものを一九九二年に単行本にまとめたものである。そこには、児玉の「急死」の周辺にいた後藤の姿が描かれている。
児玉源太郎は当時まだ台湾総督を兼ねていたし、後藤はその部下の民政長官だった。日露戦争で勝利した直後、実際の指揮をとった児玉のもとに、後藤は児玉の許可もえずに現場視察と称して現われ、のちに「満州経営概論」をまとめて示す。凱旋将軍の児玉は、ときの政権主流がたくらむ満州の露骨な植民地化に反対を表明し、政権主流との対立を深めていた。後藤の「満州経営概論」にも反対で、後藤の出しゃばりに不快の念を隠さなかった。
後藤は児玉が急死する前夜、児玉邸で三時間も話し合っている。急死の原因としては暗殺説もささやかれた。『天辺の椅子』の描写は、元医師、後藤の動きに疑問をなげかけるものである。少なくとも後藤は、三時間の訪問の直後、気分がすぐれないと家族に訴えていた児玉に薬をとどけている。翌朝、児玉の死が判明すると、後藤は、家族を追い払うようにして、捜査活動めいたことをした。だがこれが事実だとすれば、いかにもおかしな行動の経過ではないのだろうか。もしも暗殺、毒殺だったのだとしたら、直前に身近にいた後藤は、最大の容疑者だったはずだ。
後藤がとどけた薬は、いったい何だったのだろうか。証拠湮滅の疑いもある。元医師であったとしても、当時の立場は児玉の直接の部下であり、台湾総督府民政長官である。犯罪捜査めいたことは警察にゆだね、死因の確認などの作業は、かかりつけの主治医か警察医にまかせるのが筋だったのではないだろうか。
満鉄の初代総裁となった後藤は、満鉄の機関紙として『満洲日日新聞』を創刊したが、英文欄を設けるなど他民族の存在を視野に入れた工夫をしている。
調査機能の強化にも執念を燃やした。日本の海外侵略史に名高い満鉄調査部は、後藤の就任の翌年の一九〇七年に創設された。この調査部創設はまさに、台湾統治以来の後藤の「文装的武備」論が築いたピラミッドの頂点である。
首都東京の丸の内にも満鉄の支社があった。満州の植民地経営で生み出される巨万の富を基礎に、その後の中国大陸全体への侵略の準備としての調査活動が、満州の本社と丸の内のビルの中の支社、現地出先機関の総力を駆使して、着々と進行したのである。満鉄調査部は実質的に、日本の植民地政策全体への指導機関の役割を担っていた。もっとも正確な記録に即しているらしい『回想満鉄調査部』(野々村一雄、勁草書房)によると、最大時のスタッフ実在数は二三四五名である。予算は一〇〇〇万円に達した。調査報告のなかには「支那抗戦力調査」などという物騒な題名のものもあった。
(6-8)シベリア出兵で「強硬論」の外相と「言論機関との小波瀾」 へ