第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀
電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1
第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 10
「黄金の魔槌」に圧殺された大正デモクラシーの言論の自由
実際には、同時代の新聞人が直後に発した論評は、単なる「不人気」などという生ぬるいものではなかったようである。たとえば、同年に発行された『日本新聞年鑑』の一九二四年版が引用している『新聞及新聞記者』(24・3・1)の記事には、つぎのような絶叫型の激しい怒りの声がある。
「黄金の魔槌は、東京新聞界の高貴なる伝統を、打ち壊しつつある。無垢の処女は、一片の人肉として、公売台上に血の涙を絞りつつある。憤りなくして、これを見聞きするものは、純粋の新聞マンではない」
しかも、「その最たるは読売である」という認識と、かなり詳しい状況の告発さえもが、『日本新聞年鑑』の一九二四年版には残されているのだ。
それなのになぜか、こうした当時の新聞人の肉声は、これまでの新聞関係の類書に現われていなかった。不思議なことなのだが、この件でわたしは、大変に驚くべき経験をしてしまったのである。
旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ』を執筆した際、わたしは当然の基礎作業として、新聞業界の基本資料ともいうべき『日本新聞年鑑』に当たった。そこで、当時の版に、すでに一部を紹介したような、それまでの類書がまったくふれていなかった記述を発見したのである。
わたしの考えをハッキリいえば、それまでの類書は、なぜかすべて、日本の新聞の歴史を論ずる上で、決定的に重要な同時代資料をまったく無視し続けていた。意図的か否かは分からない。もしかすると、わたしが抱いていたような問題意識が、これまでの研究では完全に欠けていたのだろうか。こういう決定的資料の存在に、誰も気付かなかったということは、考えにくいのである。これから改めて要約紹介する『日本新聞年鑑』の当時の版を発見するのは、そんなに難しい作業ではなかった。
まず最初には国会図書館で資料検索をした。すると当時の版がない。つぎの調査対象は常識的に考えると当該の業界筋である。新聞業界には業者団体の新聞協会がある。わたしは放送問題を調べるときには民間放送連盟の資料室を何度も利用していたから、わざわざ頭をしぼって考えるまでもないことだった。国会図書館になければ新聞協会に足を向けるのが当然だと感じた。永田町の国会図書館から新聞協会が入っている内幸町のプレスセンターまでは、地下鉄でたった一駅である。来たり、見たり、発見せり、などと力むほどのこともない。すべてが、その日のうちに済んでしまった。こんなに簡単な資料探索はなかった。その後、あらためて類書を比較検討してみた。推測によると、どうやら、それまでは、関東大震災の直後の新聞戦争の真相について、業界の社史類の記述を越えて深く追及しようと試みたメディアの研究者は、誰もいなかったらしいのである。それとも、こういう部分はアカデミズムの聖域となり、さらに踏みこむ研究は事実上、タブーとなっていたのだろうか。
『日本新聞年鑑』一九二四年版では、読売、やまと、萬朝報、国民の主要四紙の経営変動の陰に政財界からの「巨額」の資金の動きがあると論評し、こう続けていた。
「しかし、その最たるは読売である。[中略]これらの悲しむべき実例を、ほとんど一時に見聞きした斯界従業員は、これ実に、新聞の資本化であり堕落であり、黙過すべからざる罪悪であると叫び、[中略]諸家の批判は大体において、新聞の悪資本化を攻撃するに一致した」
読売、やまと、萬朝報、国民の四紙は、主張の違いこそあれ、いずれも東京新聞界の名門であった。朝日と毎日は、もともと大阪の財界紙出身であった。朝日は、すでに見たように、「白虹事件」で権力の懲罰を受けると直ちに萎縮して、生え抜きの記者を解雇し、あまつさえ、その記者たちが拠り所にした大正日日を目の敵にして毎日と連合し、手段をえらばずに、つぶしにかかるような本性を隠し持っていた。「宵越しの銭」は持たない「べらんめえ」言論の担い手として、江戸以来の気風を誇りにしてきた東京生え抜きの名門紙が、朝日や毎日並に「悪資本化」されるということは、ついに、ほとんどすべての有力紙が財界と権力、国家独占資本の手に握られることにほかならなかった。
さらにこの『日本新聞年鑑』には、同じ年の雑誌『新聞及新聞記者』三月一日号の記事が、一ページにわたって引用されている。すでにその一部を紹介したが、そのほかの主要な主張は、つぎのようなものである。
「それ(政党化)よりも怖ろしいのは、資本化の悪魔である」
「『金さえあれば誰でも新聞を経営してよろしい』……この思想こそは大悪魔なのだ」
「没理想の資本家は、実際新聞の大敵、新聞事業の悪魔である」
「悪魔を引きいれて、新聞界を堕落せしめんよりは、切腹して果てるを士とする」
これらは、きわめて強烈で、しかも政治的な、新聞関係者自身による現状批判だったのではないだろうか。以上のような「悪資本化」の実際の経過についても、『日本新聞年鑑』の一九二四年版と翌年の一九二五年版で、連続して取り上げている。読売の場合についても若干の具体的な記述がある。しかし、読売の場合は複雑なので、のちに詳しく検討しながら紹介し直す。
ここでは一九二四年版に記された「やまとの新背景」の主要部分を紹介することによって、「悪資本化」の経済的および政治的背景をうかがってみたい。
「やまと」も読売と同じく関東大震災で壊滅した。立て直しの副社長として、「巨額」の再建資金を背景とした前東京日日政治部副部長の田中朝吉が就任し、経営の実権を握った。東京日日は、大阪毎日に買収された出店である。震災の被害がなかった大阪の財界を背景とする毎日が、その出店からさらに別の首都東京生え抜きの名門紙に、自社人脈を送りこんでいるわけである。そこで、「やまとの新背景」の記事ではさらに、つぎのような財政的内幕を推測する。
「この交渉は、きわめて迅速に行われたため、一時世間に種々の風評を生み、田中君背後の出資者を、あるいは後藤子爵なりと推し、あるいは田中陸軍大将なりとし、あるいはまた政友本党を代表する床次竹二郎氏なりといい、しかして多数者は薩派をその金穴なりと信じ、その額についても一〇万円と称し、あるいは二〇万円と噂した。しかし、それはのちに、三井系の山本条太郎氏なるべしとの想像、もっとも力をしむるにいたった」
さてさて、大変な化け物屋敷になってしまった。当否は別として、ともかく、ここに名がでてきた人物なり集団なりは、当時の常識として、新聞の買収支配に動いても不思議ではないと思われていたのである。なかでも「床次竹二郎」は、さきに紹介したように、護憲全国記者大会を論じた読売の社説で、「床次氏の謬見を破れ」と名指しで攻撃されていた現職の内務大臣その人であった。「後藤子爵」とは、前内務大臣の後藤新平のことである。
このように後藤新平「前」内務大臣と、床次竹二郎「現」内務大臣とが、ともに首都東京の新聞支配の陰の人物として声高に噂されている日本新聞戦争の真っ直中で、読売への正力松太郎「前」警視庁警務部長の「乗りこみ」が行われたのである。
内務省や警視庁の新聞との関係などについては、つぎの第二部で詳しく紹介する。一般に良く知られている組織名称は「特高警察」であろうが、これは俗称である。正力は、「特高係」を配下とする「高等課長」をも経験し、その際、日本共産党の第一次検挙の指揮を取っている。つまり、こともあろうに、言論弾圧の最前線部隊である「特高」の親玉だった人物が、半世紀の歴史を持つ名門マスメディアの社長に天下ったことになるのだ。これと比較できるような異常事態が、ほかの国の歴史で起きたことがあるのだろうか。
日本は後発資本主義国である。現在のG7の仲間のような欧米の先進資本主義諸国にくらべると、特殊に遅れた条件、または、それゆえに特殊な高速栽培で急場に間に合わせた無理な条件に立脚していることは疑いない。巨大メディア、読売グループの存在も、その一つなのかもしれない。この事態の異常さを徹底的に究明することなしには、日本の新聞、またはメディアの歴史も現状も、まったく理解し得ないのではないだろうか。
そこで、つぎの第二部では、当時の読売をめぐる状況を、さらに詳しく検討し直してみたい。
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