『読売新聞・歴史検証』(13-7)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十三章「独裁主義」の継承者たち 7

政治思想経歴を詐称する元学生共産党細胞長の出世主義

 渡辺にはさらに、若い頃からの悪名がある。この件に関しても嘘の付き放題なので、右の公開質問状の内容に含めておいた。

 戦後日本の大手メディア右傾化では、フジ・サンケイ・グループが「露払い」の役割を果たした。新聞界では、朝日と毎日に比較して読売と産経を右寄りとし、「二極分解」と評している。だが、老舗の読売が露骨な右寄り紙面を作り始める以前に、自民党は産経新聞に肩入れし、企業購読依頼の推薦状を出したりしている。

 興味深いことには、潰れかけだった産経新聞に財界が公然と資金を拠出して送りこみ、“参詣残酷物語”を仕掛けた故水野成夫も、その後継者の故鹿内信隆も、元日本共産党員だったし、それゆえにこそかえって露骨な「反共」独裁者だった。元共産党員に財界が直接ひもをつけて利用する「反共」独裁が、戦後の財界によるメディア干渉の特徴の一つだともいえる。「反共」独裁者の典型ヒトラーが、共産党からの裏切り者を重用したという話もある。その故智にならったものか、それとも「毒を以て毒を制す」の格言通りの法則的な人事なのか、非常に興味深い歴史上の経験である。

 渡辺の場合は、大学卒業後、すぐに読売に入社した生え抜きだから、財界からの送りこみ経営者ではない。だが、あとの二点、つまり、元共産党員、および露骨な「反共」独裁者という性格では、故水野成夫と故鹿内信隆の二人の先輩と共通している。

 渡辺は、敗戦直前に旧東京帝大文学部哲学科に入った。学徒動員で中断後、まだ旧制のままの文学部哲学科に戻った。名前だけは途中から新制大学の東大に変わるが、すでに学部に進学したのちのことだから、内容に変わりはない。敗戦の翌年、一九四六年には日本共産党員となり、東大学生細胞の細胞長となる。これと同時に、東大新人会の創立者となったというのが、一応の「思想経歴」である。

 先の『女性自身』には、東大新人会の仲間の一人の回想談が載っている。「同じ新聞社に入ったら二人で社長になるわけにはいかんから、別々のところに行こう」というのが渡辺の就職先決定の際の提案であった。その他の証言をも勘案すると、一見左翼風の学生時代を送ってはいたものの、それは口先だけのことであって、実際には出世主義のかたまりだったというのが、本当のところだ。

 日本共産党入党、たちまち脱党という経歴も、当時の出世主義的な青年の一つの典型である。敗戦直後には、ソ連は赫々たる戦勝国であり、社会主義の「祖国」であった。少数野党の日本共産党でさえも、新しい未来権力の栄光を放っていた。

 ソ連を中心とする世界共産主義運動も欠陥だらけだった。日本共産党自身も、非合法からの急速な再建途上のこの時期について、当時のトップ、徳田球一書記長に「家父長的」な自己中心主義の傾向が見られたとし、さきのような米占領軍の「解放軍規定」以外にも、指導体制や方針にも多くの誤りがあったことを認めている。中国の解放区、延安からソ連を回って帰国して救国の英雄のように迎えられ、首相にまで擬せられた野坂参三元議長についても、つい最近の死の直前に、「同志」をスターリンの銃殺隊に引き渡した過去が明らかになった。スターリニズムや中国の文化大革命などの権力闘争の犠牲者も多数いる。さらにさかのぼれば、フランス革命のギロチン恐怖政治の歴史もあった。

 しかし、だからといって方向転換の果てに、逆に大企業の社長を目指すなどというのは、本末転倒もいいところであり、人間の底が浅い証拠である。

 しかも、渡辺は、この青年時代の思想経歴と活動に関して、都合のいい自己宣伝をしている。はっきりいえば、政治思想経歴の詐称に当たるのだ。

『女性自身』編集部に聞くと、くだんの提灯記事「大いに吠える!/僕の放言実行人生」は、何人かの取材と資料収集によって、アンカーと呼ばれる執筆専門の記者が仕上げる方式の、典型的な週刊誌特集である。だから文責がだれにあるのかは定かではないが、渡辺が取材記者に会っているのは確かだ。「 」内は本人の発言に添ったものという形式である。山室広報部長は、わたしにも「会見できた場合にはゲラを見せてくれ」と注文をつけた。だから、この『女性自身』の記事の場合にも、本人もしくは読売側の検閲を経た可能性が強い。共産党との関係にふれる部分はなぜか「 」でくくられてはいないのだが、次のようになっている。

「共産党とも、自主的な学生運動を行なえる組織を目指して戦前にあった東大新人会を復活したことによって、あっさり訣別」

 この「訣別」の件を、これまた提灯持ち型の単行本、『読売王国/世界一の情報集団の野望』(講談社)の「渡辺恒雄という男」という項で見ると、以下のようになっている。

「マルクシズムには人間の自由がないという認識から、組織と個人の関係はいかにあるべきかを考え、そこからいわゆる『主体性論争』が活発に行われるようになった。この動きが共産党を刺激する。渡辺は当時、共産党東大細胞の委員長だったが、先んじて共産党を離れ、それを知った共産党は慌てて渡辺らを除名処分にして面子を保った。[中略]こうして生れたのが再建新人会である。[中略]渡辺が幹事に就任した」

 そのほかにも、たとえば『現代』(80・9)では、「スパイの嫌疑を受けて除名された」という解釈に立つ執筆者の質問に対して、渡辺の方が、「共産党は、人を除名する時、すぐスパイだといいますからね」と答えたことになっている。この返事の仕方は「話をそらす」という感じである。『文藝春秋』(84・1)では、「追い討ちをかけるようにして渡辺、中村の除名を党として決定、翌年一月六日付の『アカハタ』紙上で二人が警察のスパイだったと書きたて、反革命分子としての烙印をおしたのである」と記している。ところが、国会図書館に収められている『アカハタ』には、その前後の号までいくら見ても、そんな記事はないのである。いずれも物的証拠資料の裏づけを欠く文章ばかりである。果たして真相はいかに、という興味を抱かざるを得ない。

 そこで、もう一方の当事者の、日本共産党本部にも当時の事情を照会してみた。なかなか返事がないので、あきらめかけていたところ、執筆中だった旧著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の出稿直前、一九九二年八月末になって連絡がはいり、中央委員会常任幹部会委員の小林栄三が会見に応じてくれた。小林は、東大で渡辺の二年後輩に当り、渡辺の処遇が激論になった当時の共産党東大細胞の会議にも出席していたという。

 小林の思い出話のほかにも、当時の『日本共産党決定・報告集』や『アカハタ』記事などの資料コピーも沢山提供してもらえた。全体の経過はかなり複雑なのだが、本書では、思い切って簡略化せざるをえない。

 読売争議の項で記したように、渡辺が共産党に入った年の一九四六年には、すでに第二次読売争議が敗北している。新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)が中心となって呼び掛けた一〇月ゼネストも挫折した。アメリカとソ連の関係は、すでに冷戦状態を明確にしていた。翌年の一九四七年には、「反共ドクトリン」として知られるトルーマン大統領の年頭教書が発表された。二・一ゼネストがマッカーサーの直接干渉で失敗に終わった。

 左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。渡辺らは、この民主化同盟と連絡を取りつつ、青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、一九四七年九月以降、東大新人会の「再建」を始めた。この「再建」活動には、東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていたようだが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも相談なしに行われていた。

 しかも渡辺は、この活動資金五千円を、元日本共産党幹部で、日本共産党側からは「裏切り者」とされていることで有名な三田村四郎から受け取っていた。渡辺に同調する仲間の一人に中村がいた。かれらの活動に反対する党員が直接の連絡を取った結果、当時は中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。

『日本共産党決定・報告集』(人民科学社)によると、席上、中村や渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」。ところが、除名処分に関しては「賛成二七、反対二六、棄権が三というような状態であった」。「除名処分に反対した人たちの意見を調べてみると、事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」状態であった。

 さらには、『アカハタ』(48・1・6)によると、「こんなわかりきった規律違反に対して、なぜ相当な数の人々が反対するかというと、もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふを中村、渡辺がのこしたので、要するに後難をおそれたこと」が指摘されていた。そこで、共産党の東京地方委員会は、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」という理由で一九四七年一二月一六日、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。

 小林の説明によると、このときの「細胞の解散」という処置は、当時の規約にもとづいたものであったという。渡辺らはその際、「再登録」を申し出なかったわけである。日本共産党の党内文書では「除名」と記されているが、明らかに普通の除名処分とは異なる。特殊ケースのようである。

 新人会については、その後の『アカハタ』(48・2・7)報道によると、一九四八年一月三〇日に「総会をひらき、約八〇名が出席して、会の今後の方針を協議したが、大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」とある。

 以上のような共産党側の経過説明に対して、本当は渡辺本人の口から反論を聞きたいところだが、前述のように直接取材は成立しなかった。だが、幸いなことに、小林は、『資料学生運動』(三一書房)に収録されている渡辺自身の文章のコピーも提供してくれた。

 渡辺自身が書いた「東大細胞解散に関する手記」は、「〈始動〉48・3・1」から再録されたものであり、かなりの長文である。弁明の数々を紹介すれば切りがない。渡辺は意外にも素直に「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」とか、「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めている。

 三田村の裏切りは有名である。関係者の間で、その名を知らぬものはいなかった。その後も三田村は財界の意を受けて、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けていた。わたしが民放労連日本テレビ労組の執行委員だった時代にも、三田村労研が、民放の会社派組合を集める御用組織、通称「第二民放労連」作りを画策中だという情報が入った。連れ立って三田村の事務所に抗議行動に押しかけたことがある。

 渡辺の弁明は、まさに「だだっ子」なみのお粗末さである。子供ではあるまいし、三田村の金がどこから出ているのかを知らぬ存ぜぬで通るわけがない。渡辺らの活動は最初から思想的にも腐っていたのだ。

 日本共産党との関係では、「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取りまき罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問」されたなどと記している。この「極左派」という用語に、特段の意味があるのである。当時は最近の状況と違って、共産党以外に「極左派」と呼ばれる集団があったわけではない。ところが、渡辺らが起草した「新人会綱領」には「公式的極左主義を克服し」という部分がある。これが渡辺らの常日頃の言動からして、日本共産党の方針への批判を明らかにしたものであり、分派活動の証明と見なされたというのだ。

 なお、この渡辺自身の「手記」の中には、「沖□和□君」「荒□新□君」などと「一部伏せ字」を気取った部分がある。これなどは同級生や関係者が読めば、だれのことかは一目瞭然であろう。「党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふ」を渡辺らが口にしたという『アカハタ』報道には、根拠がありそうな気がする。当時の共産党は、戦前のような非合法ではなくなったものの、まだ公然と個人名を名乗って活動するのには危険があった。レッドパージ以後の戦後反動期ともなれば、なおさらのことで、就職にも差支えがあったはずだ。

 美文調の、論理的には非常に分りにくい「手記」の最後は、次のようになっていた。

「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」

 わたしは再び、本書を公開質問状として読売に提示する。直接取材、または対決によって、渡辺社長自身の口から、事実経過の確認を得たい。


あとがき