『読売新聞・歴史検証』(13-4)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十三章「独裁主義」の継承者たち 4

「はで」な警防で「絨毯爆撃を仮想」、「個人はない」と講義

 小林は本来、庶民的な生まれと育ちだった。『巨怪伝』では、正力松太郎の生家のありさまを描いたのち、つぎのように記している。

「その対岸には、のちに正力の長女梅子の婿となる小林與三次の生家が残っている。要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ船の船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている。小林與三次の足の裏の皮が今でも厚いのは、子供の頃イカダ乗りの手伝いをした名残である」

 しかし、庶民的な生まれと育ちだからといって、かならずしも庶民の味方になるとはかぎらない。「末は博士か大臣か」とばかりに、子供の頃から競争心を煽る明治以後の日本式学校教育の結果、猛勉強で「立身出世」街道を突っ走らされた元「平民」の方が、かえって出世欲の強い権力主義者になる場合も多かった。貧農の息子から身を起こした維新の元老、伊藤博文が、その祖型である。

 小林は、一九二三年(大2)に生まれ、一九三六年(昭11)三月に東京帝大法学部を卒業し、同年四月に内務省地方局に採用された。

 内務省は、全国の道府県知事の任命権を持ち、地方局はその全体を統括していた。小林は、中央官僚の身分で若殿様並の地方回りをする。熊本県警務課長兼警察訓練所長、京都府警防課長を経て、当時特設された興亜院の事務官に転出し、再び内務省の地方局に戻り、そこで敗戦を迎えた。

 戦後は、内務省監察官、職員課長、選挙課長、行政課長を歴任し、内務省解体後には建設省文書課長を経て、自治省行政部長、財政局長、事務次官となった。

 天下り先は住宅金融公庫で、そこの副総裁となった。いわずとしれた「高額退職金稼ぎ」の気楽な名誉職である。そのころから小林は、自治省の外郭団体が発行する『自治時報』(のち『地方自治』に改題)に「自治雑記」という題の回想録を連載している。

 以下、とくに注記がない「 」内の記述は、この「自治雑記」からの引用である。くわしくは旧著『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』を参照されたい。本書では、さきにのべた通り、「人となりの理解を助ける程度」の特徴的な経歴と発言の紹介にとどめざるをえない。

 京都府時代について本人は、「わりとはでに警防課長の仕事をしていた」と自認する。小林が京都府の警防課長になったのは、大学を出てからたったの四年目で、一九四〇年(昭15)、日米開戦の前年のことである。「警防」には、現在の消防庁の仕事がふくまれていた。「消防」と「防空」は連結していた。小林は、サーベルを下げ、軍服まがいの征服で「防空演習」の指揮を取った。小林が自ら「はで」だったと語るのは、その種の活動が地方紙に写真入りで報道されたりしたからのようである。しかも、それだけではなく、つぎのような恐るべき積極性をも発揮している。

「京都府の地図などをひろげ、いろいろな状況を想定して、矩形の紙を図上に置き、いわゆる絨毯爆撃を仮想しながら、作戦を練った。[中略]国民防空に関する何点かの意見書をしたためて、内務省の防空局に送ったことがある」

 小林の「意見書」なるものが、防空局とやらで、いかに検討されたものかはまったく分からない。だが、その数年後の日本全土で、この種の気違いじみた世間知らずの官僚の指導によって、灯火管制、防空壕、防空頭巾、バケツ・リレーなどによるまったく無駄な抵抗がつづいた。東京大空襲の大被害にも懲りずに、国体護持だけのために降伏を引き延ばし、ついには人類史上初の核爆弾の投下さえ招いたのである。

 信濃毎日の桐生悠々が問題の「関東防空大演習を嗤う」を発表したのは、小林の「意見書」提出より七年前、一九三三年(昭7)八月一一日のことである。「爪の垢でも煎じて飲ませたい」とは、まさにこのような場合のための言葉であろう。

 小林の「はで」な京都府警防課長時代は一年未満だった。おなじ一九四〇年(昭15)の内に、興亜院文化部の事務官に引き抜かれているからだ。本人によれば、「藪から棒」の話だったというのだが、「地方庁勤めの若輩者にとっては、中央政府の交流人事」という出世の糸口でもあった。だから、「即座に、引き受けた。そして、対支文化政策という新しい職務に胸をふくらませた」のである。

 興亜院は、外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣を副総裁とする「対支機関」として、一九三八年(昭13)に設置された。勅令の「興亜院官制」が『官報』に記載されている。事務官は「専任十八人」、身分は「奏任」と定められていた。官僚コースとしては栄転である。

 小林は、そこでの仕事の内容を、「大陸にゆく学校教員のための講習会に、出て喋りもした」とか、「現地には、中支と北支蒙疆を、十日あまりの旅だったが、一度ずつ訪ねた」などと語っている。小林の回想では、訪問した現地での興亜院の業務内容がまったく省かれているのだが、興亜院という「対支機関」が設置された経過の核心部分は、この見慣れない難しい文字の「蒙疆」にあった。内蒙古などともいわれる広い地域なのだが、ここに極めて重要な農作物が大量に栽培されていた。その未熟な実から阿片の原料が採れる罌粟(けし)である。くわしくは、すでに後藤新平の項目で紹介した『日中アヘン戦争』ほかの資料にゆずる。

 ありていにいえば、興亜院は、外務、大蔵、陸軍、海軍の間の、大陸利権争奪戦を調整する中央フィクサー官庁であった。阿片の売買による莫大な利益は、満州ほかの現地傀儡政権の維持にも当てられたが、同時に軍の機密費の源泉にもなった。興亜院の実務の中心に座る総務長官兼文化部長、つまりは小林の直属上司は、南京大虐殺を起こした派遣軍の司令官として有名な柳川平助中将であった。

 小林が、以上のような興亜院の実態について、まったく小耳にもはさんでいなかったということは、およそ想像しがたい。小林も、やはり、先輩たちと同様に、墓場まで秘密を抱いて行くのだろうか。

 さて、興亜院時代にすでに「中央政府」に戻っていた小林は、その後、古巣の内務省地方局の行政課に事務官として復帰し、ここで二年先輩の鈴木俊一(前都知事)と机を並べる。本人の回想では、地方制度の改正案の原案作成が主な仕事だったようになっているが、国会図書館の著者別目録で探してみたところ、内務省自治振興中央会発行の『部落会町内会指導叢書第一二集』というのがでてきた。発行者による趣旨説明は、つぎのようになっている。

「本輯は昭和一八[一九四三]年六月本会主催の部落会町内会庁府県指導者講習会に於ける、内務事務官小林與三次氏講義の『地方制度の改正』に関する速記内容を収録し、更に同氏の『町内会部落会等の法制化に就いて』の記述を併録したるもの、時局下隣保護組織指導上の参考として広く此等の関係者に頒つ次第である」

 つまり小林は、かの悪名高いトントントンカラリンの「隣組」の「庁府県」、現在でいえば都道府県の指導者教育の講師を勤めていたのである。その実物のハイライトは、次のようなものであった。「これは私が今更申上げる迄もなく、日本の国柄というものの根本から自治というものを考えなければ、問題にならないのであります。日本の根本の国柄については、今更申上げる必要もないのでありますが、要するに万世一系の天皇の御統治、これが根本でありまして、御統治に対する国民の翼賛、これが他の反面なのであります。つまり御統治と翼賛、これが日本の国を構成している根本の大義であります。申上げるまでもなく、日本国民というか、自治体も国家の中にある日本国民の団体でありますが、この日本人の本質、それは団体と個人とを問わず、日本人の本質は何処にあるかといいますと、いうまでもなく、個人自体の幸福とか、発展というものは何の意味もない。全国における個人が集まって、個人の最大限利益を目的として国家を構成するという考え方は、初めから、わが国においては考えられぬのであります。いかにすれば日本人として翼賛の大義をまっとうできるか、それが全体としての日本人の目的であり、全貌であります。これは、いうまでもないことと思います。日本の国には、つまり、個人はおらぬ、簡単にいえば公民しかおらぬ、大御宝[おおみたから・天皇の所有物]があるだけで、個人はない。天皇の御統治を仰いで、翼賛の大義に、生れ、生き、死ぬる臣民しかおらぬ、外国のいわゆる個人は、日本には存在しないのであります」

 何のことはない。「地方自治」の名において、自治の本来の意義を否定し、さらには個人の幸福追及の権利までも否定しているのである。最後のくだりなどは、まさに絶叫調である。回想では、以上のような演説の内容を具体的には記さずに、つぎのように弁解している。

「いささか冷や汗ものである。自治翼賛論とでもいうか、皇国自治論とでもいうか、そのようなものを一生懸命になってやっている」

 ただし、どこが「冷や汗もの」なのか、誤りを反省しているのかどうかは、まさに「円月殺法」の流儀でもあろうか、さっぱり分からない。文脈から判断すると、「地方制度の権威者」が「聞いておられた」ことに「恐縮」して見せつつ、実は、そういう権威者を前にして講演した過去を誇っているようにも取れるのである。

 小林は、その後、敗戦直前の一九四五年(昭20)四月一日に公布された「内鮮台一体化」の法改正の立案を担当した。この法改正は、「平等化」を名目にして、朝鮮と台湾の住民を本国並の徴兵制および「直接国税」金一五円の納付義務の対象とすることを目的としていた。その際の仕事ぶりについて小林、「当時としては豪華な差入れに舌鼓打ちながら、いかにも冥加に尽きる法案審議に従事した」と語っている。

 最近では戦後五〇年を契機として、日本の戦争責任に関する報道検証が行われているが、つぎのような小林の、関係資料「湮滅作戦」参加の実績をも指摘しておきたい。

「改正法の一件書類は、敗戦直後、いよいよ占領軍が本土に進駐してくるというときに、他の戦争関係書類とともに、焼却してしまった。全くつまらぬことをしたものと、後悔されてならないのだが、内務省の庭先で、戦敗れて、くろぐろと重くかぶさった夜空に、赤々と焔をあげながら、書類を焼いたものである」

 同時期、「地方局の事務官が手分けして」全国各地の「総監府」に飛び、「終戦応急処理方針を地方に徹底させ」たのであるが、小林は、正力の存命中に読売で、東北と北海道を担当して、「無料パスをあてがわれ」、その任務を果たしている。各地方の総監に直接口頭で伝えられた「終戦応急処理方針」のなかには、おそらく相当量の「戦争関係書類」焼却命令が含まれていたにちがいない。

「戦争関係書類」の抹殺作業で手を汚した元内務官僚が、戦後五〇年を経ていまだに、最大発行部数を誇る新聞社の会長の地位にあり、その読売が、憲法改正案を紙面で提案しているというのが、まぎれもない現代日本の実情なのである。

 小林自身の回想の中には、戦争中の言動についての反省はいささかも見られない。戦後の自治省行政部長時代には、町村合併の音頭取りをしたが、その際に「天皇・皇后両陛下の行幸を仰ぎたかった」などと語り、年来の夢が実現しなかったことを残念がっている始末である。

 戦争責任問題についての小林の見解は、つぎのような典型的なものである。

「わが国は、侵略戦争の遂行者、戦敗国として、史上拭い得ない汚名を浴びているのであるが、この大東亜戦争を含む第二次世界大戦は、結果的であるにせよ、国際的に、植民地開放の絶大な意義を持っている。完膚なきまでに敗れながらも、日本やドイツが、驚嘆すべき発展を遂げ、自由を持つことができるのも、この大戦で、自由な平和的発展の開放的環境が国際的にできたからである」


(13-5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり