『読売新聞・歴史検証』(10-8)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道 8

震災後に大阪財界バックで朝毎が展開した乱売合戦への復讐

 読売のヤクザ拡張販売には、手前勝手の理屈を立てる「根拠」があった。たとえていえば日清戦争後の遼東半島領有への「三国干渉」を、「屈辱」として「復讐」を誓ったような「根拠」である。

 関東大震災後、社屋が倒れずに新聞発行ができたのは、報知、東京日日(毎日系)、都(現東京)の三社だけだった。報知も震災前の約三六万部を、二年後には約五〇万部に伸ばした。ところが同時期、東京日日だけではなく、社屋が倒壊した東京朝日も、ともに二〇数万部だった部数を約六〇万部に伸ばした。大阪出身の朝毎両社が報知を抜き、東京で一、二位を争うようになったのである。

 朝日は大阪で印刷した新聞を東京に運び、発行遅れを理由にして、一円の定価を八〇銭に切り下げた。いわゆるダンピング商法である。資本力のある大手企業が、定価を下げて大量生産の商品を市場に溢れさせれば、それだけで中小企業は競争に負けて潰れる。現在では、もっとも悪質な商法として禁止されている。朝日からダンピングの安売り乱売合戦を仕掛けられた他社は、仕方なしに、これにならった。朝毎には、地震の被害を受けなかった大阪財界のバックがある。その上に朝毎は、地図、名画、福引き券などを景品に付ける拡張競争を、遠慮なしに展開した。

 関東大震災の二年後、一九二五年(大14)には、ともに部数を二倍以上に伸ばして一、二位を争う朝毎両社が共同戦線を形成し、さらに東京紙の追い落としを謀った。

『新聞販売百年史』では、この有様を、「定価販売即行会の創立とその活動」という項目以下、四二頁にわたり、くわしく記録している。東京で一、二位を占めた両社は、自社の専売店を中心とする有力販売店を集めて「定価販売即行会」を結成させた。発行部数が一、二位の両社が手を組んだのだから、当然、専売店、共売店の違いを問わず、新聞販売店全体への支配力は絶大である。

 今度は逆に定価を一円に戻し、他社が応じない場合には「非売の決議」を実行に移すという強硬手段を決めた。結果として、報知は九〇銭に戻して部数が急落した。時事新報は意地を張って下げ戻しを拒否し、採算を度外視した専売店設立に走ったが、「非売」の血祭りに上げられて、以後、急速に転落した。

「販売の神様」といわれた務台光雄が、報知を辞めて読売に移るに至った事情の背景には、以上のような朝毎両社の共同戦線による報知ほか東京紙追い落としの歴史があった。務台には、強い復讐の念があったのである。

 務台の性格については、ごく身近にいた部下の元販売部員、大浦章郎の証言がある。大浦は、戦後の一九四九年に東大を卒業して読売に入社し、拡張販売の現場から、販売局次長、中部読売専務などを経験した。引退後、業界紙の『新聞之新聞』に「私史・販売現場33年」と題する回想録を連載しているが、そのなかで何度も、務台の激しい行動と性格にふれている。連載の11回(92・5・19)では、つぎのように語っている。

「務台さんは日ごろ何かにつけ『刺し違える』という言葉を使っていた。私が次長になってからも何かあると、販売幹部を集めては熱を込めて『刺し違えてやる』といっていた」

 相手は誰かというと、日本国の総理大臣であったりもした。現在の大手町の敷地は国有地だったのだが、その獲得の際に時の総理大臣、佐藤栄作は、なかなか首を縦に振らなかった。そのころ務台は、「すごい顔で“佐藤総理を相手に”そいう言葉を使って我々に訴えていた」というのだ。大浦は、その務台の言葉に、「ドスを呑(の)んだようなド迫力がこもっていた」と表現している。

 これはまるで「ヤクザそこのけ」の強引さではないだろうか。「刺し違えてやる」という言葉や、「ドスを呑(の)んだようなド迫力」が、決して「気迫」だけのものではなかった例証としては、『巨怪伝』にも、つぎのような直接の証言記録がある。以下の引用文中の「武藤」とは、戦後の読売争議で途中から組合を裏切って経営の実権をにぎり、務台の読売復帰を妨害した武藤三徳のことである。

「武藤は読売退社後、昭和二十七[一九五二]年と三十五[一九六〇]年の衆議院選に、郷里の岡山から立ち、二度とも落選するが、そのときの選挙戦を手伝った郷里の後輩の野村高根によれば、務台は武藤に本当に匕首(あいくち)を突き付けかかったことがあるという。

『武藤さんは昭和四十七[一九七二]年に五十九歳で亡くなりましたが、葬儀には務台さんも出席されました。そのとき務台さんから、武藤さんの自宅で直接対決したことがあったことを聞きました。務台さんは本当に刃ものをもって武藤さんに会い、いざとなれば、それを抜く覚悟だったそうです。ところが、そこに、まだ小さかった武藤さんの子供が出てきたので、さすがに刃ものを抜くことはできなかったと言ってました』」

 このように正力乗りこみ以後の読売は、まさに「勇将の下に弱卒なし」というのもいささか上品すぎるほどの、文化果つるところだった。前近代的であり、独裁主義的であり、まるでヤクザの世界そのままだったのである。

 敗戦直後の読売争議はもとより、一九六〇年代以後の報知争議、日本テレビ争議を通じて、徐々に時代に合わせて若干の軟化はするものの、戦前からの独裁的な暴力支配の伝統は、決して途絶えることはなかった。


第十一章 侵略戦争へと軍部を挑発した新聞の責任
(11-1)「満州国の独立」を支持する日本全国一二〇社の「共同宣言」