「特高の親玉」正力松太郎が読売に乗り込む背景には、王希天虐殺事件が潜んでいた!?
四分の三世紀を経て解明される驚愕のドラマの真相!!
電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1
序章:「独裁」「押し売り」「世界一」 5
「出刃包丁の刃を相手にむけ畳に刺せ」と指導したベテラン販売員
「押し売り」問題に関して、読売の「歴史的検証」の一例を示しておこう。『巨怪伝/正力松太郎と影武者たちの一世紀』(佐野眞一、文藝春秋、以下『巨怪伝』)には、つぎのような証言がある。
「昭和三十二[一九五七]年の第一次岸内閣時代、国家公安委員長となった正力に目をかけられた元警視総監の秦野章によれば、正力は往時をふり返って、警視庁人脈で固めたから読売は伸びたんだ、とよく語っていたという」
秦野の証言は、単に読売の社内の「固め」だけを意味するものではない。しかも、その「外回り」に関する部分の方が、現在につながる正力以後の読売の本質を物語っているといえよう。秦野は、つぎのようにも語っているのである。
「内勤だけじゃなく、外回りの販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな」
この正力の「自慢」話の相手の秦野は、警視庁では後輩であり、国家公安委員長としての当時の正力にとっては、その時期の部下に当たる警視総監である。身内の目下が相手だから気を許したのだろうが、なんともハレンチな、ご「自慢」ぶりではなかろうか。
『巨怪伝』が紹介する証言のなかには、つぎのような、「刑事あがり」の仕業だかヤクザそのものの仕業だか分からない不気味な拡張販売の実例もある。
「昭和八[一九三三]年に読売入りし、一貫して販売畑を歩いてきた読売新聞元専務の菅尾且夫によれば、ベテランの販売員たちは、景品の出刃包丁を客に見せるときは、必ず刃を相手にむけ畳に刺してみせろ、などという指導までしていたという」
これでは、「押し売り」を通り越して、「恐喝罪」になるのではないだろうか。
正力は一九六九年(昭44)に死んだ。その翌年から社長になったのは務台光雄である。務台が読売の営業局に入ったのは一九二九年[昭4]のことである。三年後の一九三二年、つまり、菅尾が入社する一年前には販売部長になっているから、「出刃包丁を畳に刺す」拡張販売は、務台の直接の管轄下で行なわれていたことになる。務台が、この話を知らないはずはない。
だが当然、務台が社長の任期中に編集発行された読売の社史『読売新聞百年史』はもとより、務台個人の伝記『闘魂の人』(松本一郎、地産出版)や、『別冊新聞研究』(13号、81・10)の「聴きとり」に答えた九五頁にもわたる長文の回想記録、『新聞の鬼たち/小説務台光雄』などのいずれを見ても、「出刃包丁を畳に刺す」などという話は、まったく出てこない。もちろん、「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」と豪語したという伝説の持ち主でもあり、「販売の神様」の異名を取った務台のことだから、読売の拡張販売に関する自慢話が出ないわけはない。むしろ、どの資料でも、それが強調されている。一軒一軒、販売店を直接たずねて、頭を下げて、現地の実情を詳しく知る努力を重ねたという。聞くも涙、語るも涙の、苦労話の連続である。
務台は、読売に移籍する直前まで、題号が現在のスポーツ紙に残る報知の販売部長だった。明治初年からの伝統に輝く政論紙の報知は、関東大震災で社屋が崩壊するまでは、東京で第一位の発行部数を誇っていた。その報知が震災を契機として、大阪の財界紙だった朝日と毎日から追い上げられ、急速に没落し始めた。落ち目の報知を内紛がらみで退社した務台にとって、新たな人生の目標はただただ、朝日と毎日を抜き返す新聞経営となった。正力とコンビを組んだ務台の拡張販売には、常識を越える異常な執念の業火を見るべきであろう。
務台は、その晩年にも、演説をはじめたら一時間でも二時間でも大声を張り上げ続けるといわれた。細かい数字をつぎつぎに挙げて論ずる記憶力の良さを誇っていた。だが、その抜群の記憶力には、都合の悪いことは上手に削除する編集能力までが伴っていたというべきであろう。
以上、前置きは最小限度にとどめ、読売そのものの歴史的概観を先行して描いてみよう。もちろん、本書の規模では、その全容を描き切ることは不可能である。とりあえず、つぎの第一部では、明治・大正期の歴史の転換期の曲がり角ごとに読売がたどった軌跡を描き、その特徴的な体質を、具体的に目に見えるようにしてみたい。
読売の社史は、それがいかに汚辱と欺瞞に満ちているにせよ、それ自体、日本のメディア史、ひいては近現代史の、決定的に重要な核心部分をなしているのである。
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