『週刊プレイボーイ』《迷走のアメリカ》ユーゴ空爆編

ユーゴ戦争:報道批判特集 / Racak検証

『ユーゴ軍司令部高官/怒りのNATO批判』

1999.10.29

Racak検証より続く / 本誌(憎まれ愚痴)編集部による評価と解説は別途。


『週刊プレイボーイ』(1999.10.19)
《迷走のアメリカ》第4部「ユーゴ空爆」編・第7回

ユーゴ軍司令部高官/怒りのNATO批判

「ヤツラの空爆が、いかに非人道的な攻撃だったか、
キミたちはどれだけ知っているのか?」

写真説明:

1) ユーゴスラビア軍参謀本部大佐、ミラン・ミヤルコフスキー氏の発言は衝撃的だった。

2) 狙った階だけを正確に爆撃するNATO軍の攻撃。ビルは今も放置されたままだ。

3) 民間人の乗った列車を「見事に」誤爆したNATO空爆機.この行為に犯罪性はないと言えるのか。

4) 体史官誤爆前に、すでにクリントンをヒトラーにたとえていた中国の新聞。

5) 陸軍クラブの一室で河合氏の取材を受けるユーゴ陸軍大佐ミラン氏。

6) 空爆には様々な「最新式」の爆弾が使われた。NATO側は、それを人道的攻撃と呼んでいたが…

 誤爆。ユ-ゴ空爆に関する報道で最も頻繁に使われた言葉だが、この言葉ほどNATOとアメリカ軍の「嘘」を象徴的に表現している言葉はない。一体、どういうミスを犯せばこんな正確に、明らかに民間と思われる施設と人を爆撃することができるのか…。現地の取材で筆者が実感した「空爆の欺瞞」。今週は、戦争の当事者であつたユーゴ陸軍参謀本部大佐のインタビューを中心にレポートする。

(取材・文/河合洋一郎)

誤爆の本当の目的

 9月6日、午後2時。

 ユーゴの首都ベオグラードでNATO軍による空爆の痕跡を見て回った後、私は街の中心部にある陸軍クラブの前でタクシーを降りた。

 ガランとしたロビーには誰もいない。古びた大理石の床に靴音を響かせながら私は2階へ続く階段を上がっていった。入り口で教えられた部屋をノックする。

 しばらくすると女性がドアを開けた。窓の隙間から差す陽光に渦巻く紫煙の向こうに、ひとりの男がソファに座っている。彼は私を見るとゆっくりと立ち上がり、口元にかすかに笑みを浮かべた。

 それがミラン・ミヤルコフスキー大佐だった。陸軍参謀本部付きの軍事アナリストで、KLAについてはユーゴ軍きってのエキスパートである。私が今回の取材で最も会いたかった男のひとりだった。

 私はベオグラードに入る前、軍部の人間への取材は半ばあきらめていた。取材のアレンジを担当していた外務省側から軍がジャーナリストの取材に難色を示していると聞かされていたからだ。彼らはいまだに臨戦態勢にあり、取材相手がインタビュー中に口を滑らせ、極秘事項を漏らしてしまうのを警戒しているようだった。

 それが一転して初日に彼へのインタビューがセッティングされていたのである。が、大佐の表情からまだ警戒心が解けていないのは明らかだった。私は通訳の女性を右に彼の正面に座り、まずインタビューを受けてくれたことへの感謝の言葉を述ベ、これまでに入手した情報から自分なりに現在のユーゴ情勢をどのように分析しているか、そして取材の目的を説明した。

 通訳の言葉を聞きながら彼が何度か小さくうなずいた後、

「キミの目的はわかった。なんでも聞いてくれ。話せる限りのことをお答えしよう」

 と言った。

 まだ表情は硬かったが、どうやらこちらの意図が通じたようだ。私はテープのスイッチを入れ、インタビューを開始した。

 最初に話題になったのは、NATO軍のブリーフィングでミスと簡単に片付けられていた民間施設への空爆についてだった。前号でも述べたように、ユーゴ側の証拠を見る限り単なる誤爆とは到底考えられなかった。大佐は淡々とした口調で話し始めた。

「当然だ。あれはミスなどでは断じてなかった。狙いは大量の難民を作り上げることにあった。難民が出れば彼らの悲惨な姿に国際世論の目が集まり、問題の本質が見えなくなるからだ。あの脱出劇にはNATO軍だけではなくKLAもひと役買っていた。彼らはランブイエ交渉が終了した頃からアルバニア系住民たちに隣国のアルバニアかマケドニアに脱出するように指令していたのだ。コソボから出ていかねば殺すと脅迫されたアルバニア人もいる。

 また、我々はKLAがNATO軍に携帯電話を使って爆撃する民間ターゲットを指示していた事実も突き止めている。結局、あの大量脱出もラチャック村虐殺事件やランブイエ交渉同様、セットアップだったのだ。コソボを独立させるためのね」

呪われたテロの歴史

 現在、コソボでは着々と独立の準備が進みつつあるが、空爆の停戦合意事項や国連決議に反してKLAがコソボ独立を絶対にあきらめないのは、バルカン半島におけるアルバニア人の歴史を少しでも知っていれば最初からわかっていたことだという。

 大佐はそう前置きして、アルバニア人によるテロの歴史を語り始めた。

 彼によると、第2次大戦以前からすでにカチャツィ(逃亡者の意)と呼ばれるコソボ独立を求めるイスラム教徒による組織がコソボには存在していたという。彼らはその頃からコソボ南部のドレニッァを本拠地として、セルビア人やモンテネグロ人、また裕福なアルバニア人に対してテロを行なっていた。

「第2次大戦が始まると彼らはバリ・コンバタール(アルバニア人の戦士という意)の名で知られるようになった。メンバーは3万人ほどで、1943年にイタリアが連合軍に降伏するまでムッソリーニのファシストに支援されていたが、それ以後はナチの支配下に入った。

 その時、ヒトラーはバリ・コンバタールの兵士1万2千人からなるアルバニア人軍団スケルテンベルグを作り上げた。コソボでチトー率いるパルチザンとの戦いに使うためだ。

 旧ユーゴ連邦時代に入るとコソボのアルバニア人にはユーゴ市民として平等の権利が与えられたが、彼らのテロは続いた。この時期の彼らの名称はマルキストだった」

 マルキストといっても彼らは共産主義者ではなく、その実態はイスラム原理主義者だった。例えば組織に加入する時の宣誓は、

「コーランに誓って大アルバニア実現のためにセルビア人と戦う」

 というものだったことからもそれがわかる。

 中核メンバー1万人弱のこの組織をコントロールしていたのは隣国のアルバニアだった。スィグミリ(アルバニア情報部)のオペレーションである。マルキストはアルバニア領内に訓練基地を設置し、そこでメンバーたちは訓練された。そして、そこからコソボヘ潜入しテロを行ない、またアルバニアに逃げ込むということを繰り返していた。これはKLAがやっていたこととまったく同じである。

「アルバニア人によるコソボ分離独立運動は、1912年にユーゴがオスマン・トルコ帝国の支配から脱却した時から続いていたのだ。ただ、組織の名称がその時々によって変わっただけで、彼らは一貫して独立闘争を続けてきた。手段を選ばずに、だ。テロを行なったりナチと手を組んだりしたことでもわかるだろう。今回は手を組む相手がアメリカやドイツに変わっただけだ」

コソボ軍創設計画

 1997年前後からCIAとBND(ドイツ諜報機関)が本格的にKLAの支援を開始し、その組織構造が一変したという点で、ミヤルコフスキー大佐の証言は、この連載で以前、登場したアメリカ連邦下院「テロおよび非通常戦争タスクフォース」のディレクタ-、ヨセフ・ボダンスキーのものと一致していた。

 が、彼はひとつだけコソボのアルバニア人と外国の諜報機関の関係について意外な事実を語り始めた。1991年に地下選挙で樹立されたイブラヒム・ルゴバを大統領とする「コソボ共和国」(ユーゴスラビア連邦共和国は共和国として認めていない)が外国勢力と組んで軍隊を創設しようとしていたというのである。

 彼は言う。

「1993年初頭、セルビア警察がコソボ共和国の軍参謀本部と国防省のメンバー14人を逮捕した。その時に多くの文書も押収されたが、その中にコソボで軍隊を創設するブループリントれも含まれていた。それによると4万4千人の兵員から構成される14の旅団、そして50のテロ専門特殊部隊を作る計画が進行中だったのだ。

 もうひとつ重要な文書があった。彼らが隣国のアルバニアの国防長官サフェット・ジュリアリ将軍と交わした極秘合意書だ。そこには、アルバニアがコソボ軍創設のために武器弾薬を提供することが記されていたのだ。

 また、逮捕された男たちの尋問から彼らがCIAやBNDと接触していた事実も明らかになった。彼らはコンタクトしていた西側エ-ジェントたちの名前も自白した」

 すでにその頃から西側諜報機関はアルバニア人と接触を開始していたわけだ、それにしても非暴力を唱えてきたルゴバのコソボ共和国が軍、それもテロ専門部隊を作ろうとしていたとは。

 おそらくこの計画は、共和国政府内部に巣食っていた過激派がルゴバの預かり知らぬところで推し進めていたものと思われる。武力による独立路線派は、KLAが表舞台に登場する5年近く前に、すでにコソボ共和国政府内で大きな勢力となりつつあったということだ。

 1997年頃からCIAの支援が本格化した背景には1995年11月に結ばれたデイトン合意が大きく関係していると大佐は言う。あの合意でボスニアに和平がもたらされたため、アメリカとNATOはターゲットをコソボにシフトすることができるようになったからだ。CIAとBNDは、まずアルバニア北部に訓練基地を設置した。メンバーの多くはヨーロッパでリクルートされたアルバニア人たちだった。訓練期間は3~6ヵ月。訓練を終えると彼らは続々とコソボに潜入していった。アルバニアで訓練されたテロリストがコソボに侵入してきていることに気づいたユーゴ側は、アルバニア政府、国連、そしてECにその流入をストップざせるように要請したが、無視されたという。

 この訓練基地にはボスニアから移ってきたアラブ諸国のイスラム原理主義者たちも多数いた。あのウサマ・ビン・ラディンの組織の人間もインストラクターとして、ここで活動していた。

 大佐が皮肉な笑みを浮かべて言った。

「ここ数年、コソボで起きてきたことは、大きな観点から見ると非常に面白い。西側のキリスト教勢力がイスラム原理主義勢力と協力し合っているのだからね。世界の他の地域では犬猿の仲であるはずの両者がだ」

集結した“戦争屋”

 コソボヘ入り込んできた外国勢力はCIAやイスラム原理主義者だけではなかった。世界各地から金の匂いを嗅ぎつけた戦争の犬たちが群がり寄ってきたのである。

「外人傭兵の姿がコソボで目立ち始めたのは1998年からだ。報酬は月に1万マルクから1万4千マルク。我々が確認しただけでもクロアチア人、ドイツ人、イギリス人、フランス人、ブルガリア人、トルコ人など、その国籍は様々だった。面白いのは元イラク軍の中佐がいたことだ。彼はザグレブの軍士官学校を卒業していたのでセルビア語を流暢に話すことができた。恐らく経済制裁で貧困のどん底にあるイラクから一攫千金を狙ってやってきたのだろう。が、運良く、この男はコソボに潜入する前に国境で逮捕できた。

 クロアチア人の場合、傭兵というのは正しくないかもしれない。彼らはクロアチア軍司令部の命令によってKLAに参加していたからだ。1997年から1998年にかけて数百人規模でコソボに潜入している」

 このクロアチア人傭兵の存在は興味深い。以前にも触れたが、ボスニア戦争の頃から、アメリカのバージニア州にあるミリタリー・プロフェッショナル・リソースィズ社という傭兵斡旋会社から派遣されたアメリカ軍の退役軍人がクロアチア軍に深く入り込んでいた。彼らはクロアチア軍の訓練方法、そして情報収集システムを作り上げ、軍に多大な影響力を持っていた。

 この男たちが単なる軍事顧問ではなかった事実を示すエピソードがある。1995年夏、クロアチア軍がクロアチアのセルビア人居住区であるクライナた市地方を攻撃し、20万人が難民となってユーゴに逃げ込むという事件が発生した時のことだ。

 この直前にNATO軍はこのセルビア人居住区に空爆を加えているが、これはアメリカの軍事アドバイザーたちがクロアチア軍だけでは作戦を実行するのは無理と判断を下したためだったのだ。

 1997年からクロアチア軍司令部が軍人をコソボに送り込んだ背景にはアメリカの意向が反映していたと見てまず間違いない。今回の空爆直前に後にKLAの軍事責任者となるあのアジム・チェクがコソボに潜入したことからもそれがわかる。

 チェクについて大佐はこう語る。

「チェクはよく知られているようにコソボ出身のアルバニア人だ。あの男は元ユーゴ軍の砲兵大尉でクロアチアに駐留していた。1991年にクロアチアが独立するとユーゴ軍を脱走しクロアチア軍に参加した。1995年のオペレーション・ストームでは中心的役割を果たしたが、彼はその前年にもクライナ地方で数百人のセルビア人の民間人を虐殺している。彼がコソボヘ戻りKLAに参加したのは2月だった。NATO軍による空爆中、KLA軍4千名がユーゴ軍のアルバニアとの国境守備隊基地をNATO軍の空からの援護を受けて攻撃していたが、この作戦を地上で指揮していたのはチェクだった。彼が空爆前に送り込まれたのは、KLAのメンバーでは地上戦を指揮する能力がないと思われていたからだろう」

 ここから話題はKLAのテロ戦術に移った。

「KLAの戦術は俗にいわれるテラー・タクティックス(恐怖戦術)というやつだった。非アルバニア系住民を恐怖に陥れ、コソボから追い出すというやり方だ。これは現在でも続けられている。そのために脅迫、誘拐、暴力、暗殺、爆弾テロなどが行なわれた。都市部では誘拐と暗殺が主な方法だった」

 ここで彼は驚くべき事実を語り始めた。なんと、KLAが誘拐した人間を閉じ込め、拷問の末、処刑していた収容所が存在していたというのである。

(以下、次号)


 以上。


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