Racak(ラチャク)村「虐殺報道」検証(23)

ユーゴ戦争:報道批判特集 / コソボ Racak検証

NHK「現地ルポ」採用の危うさ

1999.9.3

1999.8.31.mail再録。

 本誌前号に概略を既報したように、本誌発行人の私(木村愛二)は、1999.8.25.午後1時45分ごろ、電波メディアの神殿ことNHK本館を目指して、残暑とはいえ甚だしき酷暑の中、渋谷のパルコ前の坂道を、けったいな格好で群れる傍若無人の若者どもを掻き分け、掻き分け、ブヤブヤとフヤケやがって、俺の青春はもっと派手だったぜ、などと呟きながら、トボトボ膝栗毛の道中旅日記なのでした。

 NHKが「録画を見せる」のは、『放送レポート』編集長に近況を確かめると、やはり、「画期的な成果」とか。わが「放送番組の録画内容確認」の対象の番組は、衛星第1放送、1999.2.3.BS22ニュースの特集項目、「報告コソボ憎しみと対立の構図」でした。内容の細部と下記[新設]機構の評価については、別途、詳しく論じますが、その際に対応してくれた[新設]広報局の[新設]経営広報部の副部長のSさんが、手渡してくれた雑誌記事のコピーは、本誌前号既報の『フライデー』(1999.2.5)の記事ではなくて、同じ『フライデー』でも、発行日付は、その3週間後の2.26.の記事なのでした。

 私は、Sさんから事前の電話で単に、上記番組に「ラチャク村の死体」映像を提供した木村元彦(ゆきひこ)さんが「『フライデー』に記事を書いている」とだけ聞き、わが読者の1人に、それを伝えたところ、その読者は、放送日の前後の新聞広告を縮刷版で調べて、本誌前号で既報の『フライデー』(1999.2.5)の記事を発見し、その号を図書館で注文して取り寄せ、該当記事をコピ-して拙宅に届けてくれたのでした。

 この経過は、怪我の功名とでも言うべきところで、Sさんから、彼のNHK局内調査による『フライデー』(1999.2.26)の発行日を聞いていたら、その3週間前、しかも、NHKの放送日の前、正確には1月22日に発売されていたことに重要な意味がある『フライデー』(1999.2.5)の記事を発見するのが、遅れたに違いないのです。発行日付が2.26.なら、実際の発行日は2週間前の2.12.となり、それでも放送日以後となりますが、実際の発行日が1月22日の方なら、2月3日放送のニュース特集の企画の材料として、担当者の目に止まった可能性があるからです。

 この点、つまり、木村元彦さんとNHKの接点が、『フライデー』(1999.2.5)の記事であったか否かは、わが自称名探偵の事件捜査上の仮説として、決定的な重要性をはらんでいるので、現在、上記の経営広報部の副部長のSさんを窓口として、回答を求めている最中です。

 上記の経過について、あえて「発見できなかったかも」とは言わずに、「遅れたに違いない」と言うのには、一応の理由があります。現在、これも、わが読者の積極的な協力を得て、評論家、故大宅壮一の蔵書公開を出発点とする大宅文庫の雑誌記事検索システムを活用し、ユーゴ戦争資料一覧を作成中だからです。すでに、上記の号以前から、木村元彦さんが、『フライデー』に、ユーゴ関係の記事を書いていたことも判明しています。

 ともかく、NHK広報局の応接室でコピーを入手した後発の記事の方も、下記のごとく、「ラチャク村の大虐殺」を、ほぼ事実と断定する主旨のものでした。以上、合わせて2本の「虐殺断定」の『フライデー』記事を書いた木村元彦さんが、上記番組では、NHKに「死体」の映像を提供するだけではなくて、別の場所で収録したらしい録画で出演し、それらの記事と同様の見解を述べているのです。そういうわけなので、これらの記事における木村元彦さんの主張の検討は、同時に、木村元彦さんの「現地ルポ」を採用したNHKの眼力の評価にも、つながります。そこで、まずは記事全文を紹介し、その後に、疑問点を列挙します。


『フライデー』(1999.2.26.p.26-27)
初めてコソボに潜入取材した
日本人ジャーナリストの報告
ユーゴ発

「ラチャク村の大虐殺」は絶対ヤラセじゃない

[写真説明]:

1. 耳の下に残る硝煙痕から、銃を押しつけられて処刑されたことがわかる。

2. 首を切断された死体は、セルビア・アルバニア間の憎悪の深さを物語る。

3. これほどしっかり死後硬直した死体に、服を着せ替えることは困難だと思われる。

4. あきらかに非戦闘員だとわかる子供や女性の死体も、数多く見受けられた。

[以下、本文]

 45体の亡骸は、モスクの中に、整然と並べられていた。死後硬直のせいか、あるものは膝が曲がり、あるものは肘が折れ、不自然な姿勢で固まったままだ。

「こんなにもひどい蛮行が行われたのだ」と私に説明したかったのか、顔にかぶせられた布を、モスクのハティーブ(説教師)が無言のままめくって、死者の表情を見せる。首の無い遺体、目玉をえぐられた遺体。女性や子供もいる。顔の表皮を剥がされた壮年男子の遺体は、強く握った拳を胸の前にかざしたまま横たわっていた。まるで、死してなお、この蛮行に強く抗議しているかのようだった…。

 1月16日の虐殺から1日経過していたのに、死臭が全くしなかった。冬のこの地域は氷点下の世界である事を、改めて思い知った。

 人口の9割をアルバニア系住民が占めるユーゴスラビア連邦セルビア共和国のコソボ自治州。1月16日、州都プリシュティナで『セルビア軍によるアルバニア系住民虐殺発生』の報を受けた私は17日、南西へ約35kmのラチヤク村へ急行した。遺体はアルバニア系武装組織のKLA(コソボ解放軍)の支配する解放区で、一ヵ所に集めて安置されていると聞いていたが、それがこのモスクだった。

 もの言わぬ遺体を前に自問自答していると、いきなり砲撃の爆音が鳴り響いた。

 キユーッと空を切り、ドカーンと破裂する。爆音は2発、3発と続く。着弾地点が近くなって来た。モスクを狙っているのは明確だった。防弾チョッキの重さを苦にしつつ、表に飛び出し、身を伏せながら車に向かう。シートに滑り込んでエンジンをふかしてダッシユした。ほぼ同時にモスクに押し入ったセルビア人兵士によって全ての遺体が撤収されてしまったのは、その2時間後だつた。

 事件後、ユーゴスラビア国営放送は、「虐殺遺体はKLAによるでっちあげ。殺されたのはテロリスト(KLAを指す)だけで、彼らの内ゲバで殺害された者も含み、軍服を一般住民の服に着替えさせている」と報道した。しかし、この「軍服を着せ替えをさせた」という報道は嘘だと、私は断定する。

 確かにKLA側も死者の中に9名の戦闘員がいた事を認めている。しかし、私の目撃した多数の女性、子供の遺体の全部が戦闘員とは、とうてい思えない。『軍服から着替えさせた』というが、背丈、体重、性別が異なる人間、45人分のサイズの衣服を短時間で揃える事は、はたして可能なのか。それに、衣服に残る血痕と、体の傷跡の位置は、完金に一致していた。また、私が確認した遺体の傷跡には、銃口を押しつけて発砲した硝煙痕があり、戦闘ではなく、明らかに一方的な処刑によるものだった

 1992年~1995年のボスニア内戦の時にも、虐殺の犯人として国際世論の非難を浴びたセルビア軍だが、これに関しては対抗勢力のヤラセの疑いが強い。だが、今回の虐殺に関して、私はあえて断定する。45体の遺体は、決して着替えさせられた戦闘員のものではない、と。

 2月6日、フランス・パリ郊外のランブイエで、ユーゴ・セルビア側とアルバニア系住民側の和平交渉が開始されたが、最終的には独立を目指すアルバニア側と、あくまでも自治州の維持を目指すユーゴ・セルビア側の交渉は難航している。

 グラヴニク解放区で出会ったKLA兵士は、取材中の私にこう語った。

「駐留しているOSCE(欧州安保協力機構)なんてのは全く意味がない。顔を腫らして殴り合いをやっている横で『止めろよ、止めろよ』と口で言ってるようなもんだ。NATO軍が軍事派遺してくれないと、いつまでたっても俺たちは殴られっぱなしだ」

 対して、プリシュティナのセルビア人警官はこう言つた。

「私たちのような友人を大切にする民族が虐殺なんかするものか。我々が殺すのはテロリストだけだ。西側の連中は前の(ボスニア)内戦の時と同じ、騙されているに違いない。内政問題に外国の軍隊を入れるなんて愚かなことだ」

 完全に意見のくい違ったまま両者は、現在も“にらみ台い”を続けている。この凄惨な虐殺事件を教訓に、新しい合意に達することができるのだろうか。

撮影・文/木村元彦(ジャーナリスト)


以上で記事紹介終り。以下、

疑問提出

 以上の記事に関して、まずは簡単なところで、数字に疑問があります。本文の冒頭には「45体の亡骸」とありますが、同行していたらしい(目下、ベオグラードの支局に問い合わせ中)共同通信のベオグラード駐在記者、太田清さんの署名入り配信記事では、「42遺体」となっています。上記のNHK番組の映像では、私が、見ながら素早く数えたところ、約30ぐらいしか写っていませんでした。この方は、録画を再確認すれば、判明するでしょう。しかし、2人とも、本当に、遺体の数を、1,2,3,と、数えたのでしょうか

「1月16日の虐殺」とありますが、同じく共同通信の配信では「14日から15日にかけて殺害されたとみられる」とあり、他の各紙報道は、この日付けに関する限りでは、これも本誌掲載、16日付けのセルビア内務省発表と一致しており、戦闘による死者か「虐殺遺体」かは別として、事件発生の「15日」については争いはありません。「16日」は、全欧州安保協力機構(OSCE)の停戦検証団長、アメリカ人外交官のウォーカーが、アルバニア系コソボ解放軍(KLA)の案内で死体を見て、「虐殺」と発表した日付です。

「17日、南西へ約35kmのラチャク村へ急行した」とありますが、共同通信の太田清さんの署名入り配信記事では、「18日朝」となっており、「こうしている間にも、機関銃の音が頻繁に聞こえる。突然『ドーン』と大音響。迫撃砲が至近距離に着弾、記者らは急いでモスクを離れた」との状況描写、同日中に遺体がセルビア側の手でプリシュティナの病院に運ばれ、検死が行われたという事実との関係で、この日付は「18日」でないと辻褄が合わないのです。

 つぎには、細部の状況の判断ですが、「耳の下に残る硝煙痕から、銃を押しつけられて処刑されたことがわかる」とか、「首を切断された死体」とか、「銃口を押しつけて発砲した硝煙痕」とかいう部分は、別途本誌掲載の『リベラシオン』記事、「OSCEの別の筋によると、死後に切られたと見られる」と照らし合わせ、『プレイボーイ』記事の「[アメリカ国防総省高官がKLAに]虐殺事件の捏造を依頼」した可能性をも考慮すると、逆に、「捏造」の証拠とも判断できるものであって、検死結果を待たずに断定するのは非常識かつ危険極まりないことです。

「これほどしっかり死後硬直した死体に、服を着せ替えることは困難だと思われる」という判断は、日本の場合、春や秋の気温では、死後硬直が始まるのは死後約2時間後、気温が低いと遅くなるという「法医学」、または「殺人事件捜査」の常識を、まるで無視した素人の思い込みです。死後硬直が始まる以前に着替えさせることが可能であり、むしろ、「戦闘」直後に、セルビア警察部隊は引き揚げているのですから、KLAの生き残り部隊が約2時間以上も遺体を放置していたという想定の方が、不自然なのです。なお、制服の着せ替えの問題は、すでに本誌で検討済みですが、ここでも別途、後に再検討します。

「あきらかに非戦闘員だとわかる子供や女性の死体も、数多く」とあるのは、非常に不正確です。モスクは、日本なら江戸時代には葬儀のすべてを行った寺院であり、現在なら病院の遺体安置室に相当するのですから、当然、通常の死者も運び込まれます。この事件以前にも、KLAは何度も、「住民虐殺」のデッチ上げ宣伝をしていますし、木村元彦自身が、上記の記事で、「1992年~1995年のボスニア内戦の時にも、[中略]対抗勢力のヤラセの疑いが強い」と記しているのですから、まずは、どういう細工をしたかを疑うべきであって、KLA側の説明を丸々信じて、しかも、情緒的に強調するのは、非常に危険です。

 通常の死者についても検討すると、当時のコソボには、経済崩壊中のアルバニアからの流入も含めて、約180万人のアルバニア系住民がいたとされています。仮に、その数字を採用して、計算の都合上、平均寿命が50歳としてみましょう。そうすると、人口の50分の1が1年で死ぬことになり、その数字は3万6千人になります。1年は365日ですから、割ると、1日の死者は約99人となります。しかも、KLAとセルビア警察部隊の戦闘は、特にラチャク村近辺で、連日のように発生していたというのですから、戦闘の死体も相当な数になります。事件当時、時期は真冬で、気温は氷点下。腐敗菌は摂氏4度以下では繁殖しませんから、死体は腐敗せず、何日でも持ちます。KLA支配下の村から、「虐殺の捏造」のために、都合してきたものかもしれません。ともかく、少なくとも、遺体の身元確認や検死結果を待たずに「虐殺死体」と断定してはなりません

 さて、「制服の着せ替え」の「再検討」ですが、この『フライデー』記事で、木村元彦さんは、「『軍服の着せ替えをさせた』という報道は嘘だと、私は断定する」とか、「あえて断定する。45体の遺体は、決して着替えさせられた戦闘員のものではない」などと、何度も強調しています。死後硬直と着せ替えの関係については、すでに述べましたが、「ユーゴスラビア国営放送」が、文字通りに「軍服を一般住民の服に着替えさせている」という断定的な報道をしたか否かも、正確に検証する必要があります。もし事実だとしても、それは、慌てて現場に問い合わせずに言い過ぎてしまった可能性というもあります。少なくとも、「揚げ足取り」の論理は、警戒すべきでしょう。

 また、これも本誌で別途、着せ替えではなくても、制服を着ていないKLA兵士は沢山いたのだと指摘しています。私が入手している写真からの単純計算では、冬用の厚い制服を着ている兵士は5 分の1でした。

 ところが、木村元彦さん自身が執筆した最近の『アエラ』(1999.7.12)記事「コソボ解放軍認知の危うさ」にも、「昨年6月」のこととして、「5人」の「KLAと接触した」体験が記されていて、「迷彩服を着たのは1人だけで、ほかはトレパンにスウェット姿だ」となっているのです。さらには、私との電話の会話でも、私が、民間服のKLAの方が多いのではないか、と聞いた際、木村元彦さんは、それを即座に認め、「貧乏だから」と同情的に呟いたのでした。それなのに、木村元彦さんは、今年の2月に『フライデー』に談話を寄せ、ついで署名入りの記事を執筆した際には、制服、または迷彩服を着たKLA兵士の方が少ないのだという事実を、まったく報告していないのです。上記のNHKの番組でも、そう語ってはいません。これは、少なくとも、読者または視聴者の誤導になります。

 しかも、非常に興味深いことには、上記『フライデー』(1999.2.26)記事に添えられ、説明では「首を切断された死体」の写真の場合、毛糸のセーターが胸の上の方に、たくし上げられています。なぜ、たくし上げられていたかの理由は別としても、「毛糸のセーター」は、その外側に風避けになる上着を着ていなければ、特に「氷点下」の屋外では保温の役割を果たさないのです。何か上に着ていたと考えると、これもすでに本誌で検討済みの「夏用の迷彩服」の可能性が非常に高いのです。民間人に偽装するために、その上っ張りだけを脱がせた可能性があります。つまり、写真が記事を裏切っていることにもなり、矛盾だらけということになります。

以上。


ユーゴ戦争報道批判特集 木村元彦氏関連
➡ コソボ Racak検証:(20) (21) (24)
➡ 人道介入の口実「虐殺」デッチ上げ:(6) (18)


Racak検証(24):先のユーゴ戦争mail&HPに注記
週刊『憎まれ愚痴』36号の目次
緊急:ユーゴ問題一括リンク