ユーゴ戦争:報道批判特集 / コソボ Racak検証
農民虐殺デッチ上げでBBC他を戦犯告発
1999.6.11
1999.6.5.mail再録。
ユーゴ戦争は「メディア戦争」と呼ばれていますが、私は、NATO側のメディアを「戦犯」として告発し、その告発状として、この検証シリーズを続けます。
メディアが戦争を煽るのは、珍しくないどころか、むしろ、新聞なら販売部数拡大、テレヴィなら視聴率向上の絶好のチャンスとなっています。日本の近代史でも、読売新聞の社史が「西南の役」(薩摩の西郷隆盛挙兵の鎮圧)で部数が飛躍的に伸びたと記し、その後も各紙が戦争の度に拡張販売競争を繰り広げました。
CNN(アメリカ)、BBC、スターニュース(イギリス)は、ユーゴ当局がアルバニア系住民を虐殺したと称する血なまぐさい映像入りニュースを流して、国際世論をデッチ上げ、NATO軍がユーゴ空爆に踏み切る直接の切っ掛けを作りました。その状況についてはすでに、「検証:ユ-ゴ「民族浄化」の定義と真相(1)」と題するmail及びWeb週刊誌『憎まれ愚痴』記事で、現地在住の日本人による手記を紹介しましたが、その内から、ラチャク村「農民虐殺」死体に関する部分だけを、以下、繰り返します。
「[前略]今年1月には、KLAの拠点ラチャク村で頭を撃たれたり、目を抉られた45人のアルバニア系住民の惨殺死体が発見されたCNN,BBC,スカイニュースなどは、朝から晩まで悲惨な死体の映像を繰り返し流し続けた。この虐殺事件がNATOの空爆の直接の原因となった。
これに対してユーゴ当局は『KLAがセルビアを陥れるために、戦死した兵士に農民の服を着せて演出したにすぎない』と反論。仏『フィガロ』によると、この日は朝からラチャク村で掃討作戦をしていたセルビア治安部隊が、米APテレビの取材班に作戦の撮影を許可した。同時にOSCE(全欧安保協力機構)検証団にも通知していた。検証団は車2台で現地入りし。一日中、村を見下ろす丘の上にいたという。とすれば、この事件については、軍事介入を呼び込むためのKLAの演出というのが真実に近いようだ」
ただし、この内の「ユーゴ当局」の主張の内、「戦死した兵士に農民の服を着せて演出した」という部分には、翻訳の問題もあろうかと思いますが、いささか不正確なようなのです。日本の新聞に載った写真で見ても、KLAの服装は、ズボンが迷彩服でなかったり、先頭が迷彩服を着ているだけで、残りは民間服だったりします。現地でKLAを見た日本人の記者に聞くと、やはり、民間服のKLA兵士が相当いたようです。
そうだとすると、雑誌記事の方にある「ユーゴ当局」の「反論」の「兵士に農民の服を着せて演出したにすぎない」という部分は、調査不足の発言なのかもしれません。私が、BBCの特集番組で見た映像でも、日本人記者に聞いた話でも、いわゆる「兵役年齢の男性」の死体がほとんどだったようです。実際には、KLAが駆り集めた民間服のままの新兵の戦闘による死体だったのではないのでしょうか。
そういう疑問点を大手報道機関の関係者に質していくと、上記の引用記事の「ラチャク村で掃討作戦」を、直接見た日本人記者がいることが判明しました。それほどの秘密に属する問題ではありませんが、やはり、事情が事情なので、企業や記者の名は明記を避けます。ともかく、上記引用記事のように、「取材班」や「OSCE(全欧安保協力機構)検証団」の目の前で、迫撃砲を撃ちあったり、死体の争奪戦を演じたりしていたそうです。「兵役年齢の男性の死体がほとんどだった」ことも間違いないようですが、老人と子供の死体もあったという「伝聞」情報もあります。
一方の当事者のユーゴ当局にも直接聞き質したいところですが、とりあえず、日本にいるユーゴ大使館の報道担当者に聞くと、「KLAは民家に隠れるから民間人が巻き込まれて犠牲者が出る。それをKLAは、民間人の虐殺だと宣伝する」という答えでした。
さて、私は、急遽始めた連続mailやホームページのユーゴ問題特集を見て頂ければ明白なように、空爆開始と集会やデモ参加以前には、特にユーゴ問題の資料収集をしていませんでした。ラチャク村の件も、5月14日にNHK3チャンネル『海外ドキュメンタリー』枠で放映されたBBCの特集「コソボ紛争」によって、始めて映像に接したのです。
このBBC特集の映像は、一目見ただけで、実におかしなものでした。道端に点々と、明らかに「兵役年齢の男性の死体」だけが転がっているもので、いわゆる「住民虐殺」の雰囲気ではありません。説明も不明瞭で、特に、上記のような「掃討作戦」の現場での事態だという説明が全くないのは、意図的な視聴者誤導としか言い様がありません。
しかも、何人かの報道機関関係者に問い質していくと、何と、フィガロどころか、日本の一部の新聞にも当時、この「ラチャク村農民虐殺」説に疑問を呈する記事が載っていたというのです。事件の日付は1999年1月17日(注)、実は私の誕生日、昔は大当たり読売新聞連載フィクション「金色夜叉」は熱海の海岸で「貫一・お宮の別れの場。今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」の日、最近では湾岸戦争勃発、阪神大震災、廃刊事件の『マルコポーロ』(1995.2)発売日、といったところ、色々と曰くありの日なのです。
といったわけで、以後、この宿命の追跡シリーズを続けます。
注:1999.6.8.追加。後続の項目「検証(3):何とまた『読売新聞』だけが「演出」疑惑を報道」参照。某大手報道機関関係者から「1月17日」と聞いて早とちり。日本での報道が1月17日で、事件は1月15日の「掃討作戦」と翌日の「OSCE発表」という順序でした。
以上。
Racak検証(3):何とまた『読売新聞』だけが「演出」へ
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