『煉獄のパスワード』(1-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第一章 暗号コード《いずも》 4

 翌朝、影森智樹はいつも通りの六時半に目覚め、スイミングクラブが開く九時を待兼ねて入場した。クラブまで自転車で飛ばすのもウオーミングアップとして勘定している。軽くストレッチ体操をしてからシャワーを浴び、すぐに泳ぎ始めた。

 前夜はついに全く泳げなかった。十時過ぎに自宅に戻ると、ヒミコが吐き出した受信用紙が何メートルも重なっていた。原口華枝が捜してくれた最高裁長官に関する個人データと最高裁関係の資料リストである。いつものように同じ資料が華枝の方のコンピュータ・システムに保存されている筈だ。智樹と華枝だけの暗号コードを使えば、簡単に智樹のヒミコの画面にも呼出せるし、データベースまで遡らずに検索が出来る。しかし最近は仕事で夜更かしをしないことにしている。受信用紙はそのままにして、軽く柔軟体操をし、入浴してから直ぐにベッドに潜り込んだ。

 早寝早起き。そして、まずは昨晩の埋め合せに、ひと泳ぎしてからのことだ。

〈最高裁なんざ糞食らえだ!〉、と智樹は、今も泳ぎながら頭の中で怒号を発し、目下の事件からの心理遮断をした。

 プールの水は冷たくて心地良かった。

 適温である。冷た過ぎるのも困るが、暖か過ぎても、かったるくて調子が出ないものである。ウオーミングアップを済まし、いつもの五十米ハーフダッシュの練習に入った。

〈このまま一気に、二十本いけるかな〉

 と頭の片隅で呟きながら、智樹はクイックターンで身を翻し、両足で力一杯プールの壁を蹴った。

 泳法はクロールである。智樹が「二十本」と考えているのは、インタバルと呼ばれる訓練法の本数である。この成城スイミングクラブのプールは二十五米だから、往復五十米をクロールのハーフダッシュで三十七秒以内に泳ぐ。三十七秒に十三秒のインタバルを加えた五十秒を、一サイクルとも一本とも呼ぶ。これを二十本続けるのが、このところの智樹の最高目標となっている。五十米一本だけなら全力を出して三十秒を切ることができるのだから、それより七秒の余裕があるハーフダッシュは楽勝である。しかし、それは最初だけのことで、まず全身が熱くなる。脈搏が早やまる。力一杯呼吸しても息苦しくなる。だんだんと疲れが溜ってくる。一掻き一掻きが、ますます重くなる。最後は精神力で泳ぎ抜く感じとなる。

 スタート台から見て右側のプールサイドの壁には、直径約一米の大時計が二つ掛かっている。真白の盤面に、鮮やかな青の分針と赤の秒針、同じく青の太線が五分兼五秒の刻み、赤い細線が一分兼一秒の刻みになっていて、泳ぎながらでも良く見える。左オープンで泳ぐ智樹の場合、戻りのターン直後とゴール直前に、大時計が真正面から見える位置にあるので、秒刻みの練習には持ってこいの条件である。秒針の動きと体力の消耗状態を対比することができる。身体の調子が良く分るのだった。

〈いささか狂信的になってきたかな〉

 などと独りごちることもあるが、智樹は四十台半ばを越えて以来、この五十米二十本を連続して泳ぎきれるかどうかを、体調の目安にして頑張ってきた。十年前の事件以来、ヴェトナム症候群との戦いが加わってからはなおさらであった。

 泳いでいる間は、他のことを何も考えないようにする。腕の伸び、掌の掻き、太腿の振り、足首の粘り、顎の引き、腰のひねり、手の中指の先から足の親指の先まで全身に注意を払い、自分自身をしっかり掌握する。この状態を智樹は、座禅に似た〈無我の境地〉として位置付けていた。別に宗教的な意味ではないが、雑念を払って、自分自身を取り戻す心地が大切だと考えていた。

 もちろん、二十本続ける間には何度か雑念も湧いてくる。智樹にとっては、感情的なしこりをほぐすのもこの泳ぎの重要な役目なのだが、それだけの集中力が続かないことも多い。気掛りなことがあればなおさらである。気持ちの集中自体が戦いであった。

〈灰色の乗用車〉〈黒づくめでサングラスの男〉……なぜか十年以上も前にフラッシュバックする光景。……〈このやろう!〉〈じゃまだ!〉〈消え失せろ!〉

 

 前夜は泳げないどころか、夕食を取りながらの打合わせの上、ただちに失踪した最高裁長官、弓畠耕一の公邸まで事情を確めに行く羽目となった。

 隠密裡に、しかも事は急を要する。内閣官房審議官の秩父冴子が選んだメンバーは、智樹の他に、東京地検特捜部の絹川史朗検事と警視庁特捜課の小山田昌蔵警視。身内だけの愛称《お庭番》チームである。格好良く言えば国家の危機管理に暗躍する秘密情報グループ。ありていに白状すれば権力上層部のスキャンダル隠しを承る下働きといったところだ。

「御夫人が直接、最高裁事務総長に相談されました。事務総長から官房長官、法務大臣、警察庁長官、警視総監に連絡されました。それ以外に事件を知っているのは法務次官と検事総長に私達だけです。総理には官房長官が、ということでした。実際の仕事は、私達に任されています」

 冴子は、ことさらに秘密めかし、ささやき声で説明した。〈事件〉といっても、確認できる状況報告はそれで尽きていた。失踪前後の事情を関係者から直接聞かなければ判断のしようもなかった。いまのところ、事情が分る人物としては長官夫人しか考えられない。

 最高裁長官の身分は特別公務員で、首相と同格である。公邸は世田谷区の高級住宅街にあった。和風の広い庭園に囲まれた超一流、数寄屋造りのお屋敷である。だが、古めかしい門構えの内側には篠竹が密生し、町家よりも武家屋敷風の雰囲気が漂っていた。

 家政婦に案内された応接間の中は洋式の造りだった。入ると、夫人はすでに待構えていた。地味な和服をピシリと着込んだ古風な老婦人である。いっそのことそのまま、白鉢巻にたすきがけ、薙刀を抱えたほうが似合いそうな風情であった。

「弓畠耕一の妻、広江でございます」

 夫人がそう名乗った時、智樹は『雨月物語』の亡霊にでも直面した思いで、背筋がゾクリとしたものである。

 ハーフダッシュが十本を超え、注意力が散漫になった頃、その純日本風の妖怪のような姿が、プールの水の泡の中に現れては消えた。

「中年のおんなの声でした。二度とも同じです」

 極度に感情を殺した口調で、夫人は失踪時の呼出し電話らしい声の主について語っていた。

〈中年のおんな〉がもう一人の亡霊だ。しかし、こちらは姿を現わさない。声も自分では聞いたことのない亡霊だけに、かえって不気味だ。

 

〈失礼、しばらくはご遠慮願います〉

 智樹は、再び心理を遮断した。改めて全身の神経を集中し、水をつかみ直した。

〈一、二、三、四、……〉

 ストロークを数え、秒針を読む。雑念を追払うには、これが一番である。

 インタバル訓練の目的は、本来、中・長距離をほぼ同じ速度で泳ぎ切ることである。

 この訓練法は、マラソンで人間機関車といわれたザトペックの登場以来、スポーツ界の主流となった。

 筋肉を急速に使い過ぎると乳酸が溜る。身体が鉛のように重く感じる状態になり、動きが鈍くなる。インタバル訓練によって、この状態がかなりの程度に軽減するのである。もちろん、筋力そのものも強まる。

 智樹はそれに自己流の工夫を凝らしている。目標のベストタイムとその時の体力に合せて目標を定め、ブロックを組む。ブロックというのは、インタバルのサイクル何本かづつをブロックに分けることで、その間隔を段々に詰めていく練習をしている。

 智樹の場合、四十歳を越えてから水泳を再開した。最初は二百米自由型でなかなか三分を切れなかった。高校時代には二分十秒台で泳げた種目だから、いささかショックだった。それがいまでは、インタバル訓練の結果、五十米のノルマ三十七秒を四倍して二分二十八秒の計算のところ、二秒切って、二分二十六秒台が五十歳以後の自己最高記録となっている。四百米では、八倍の四分五十六秒よりいささか遅れ、五分十秒台である。

 八百米、千五百米と、長くなるにつれて平均速度は落ちるが、練習の効果ははっきり表れている。最近流行の年齢別競技会、マスターズ水泳大会にはこのところ毎回のように参加しているが、智樹の年齢グループ、五十から五十四歳の中ではかなり早い方である。メンバー次第では、年齢別優勝の金メダルが取れることもある。しかし、自由型は参加者が桁違いに多いだけでなく、早い選手も多い。全国規模の大会で最高メンバーが揃う時には、三位に食込むのがやっとであった。

 智樹の体力なら、まだ、常連の強豪と勝負して優勝することも、日本や世界の年齢別最高記録を更新することも、全くの夢とはいい切れなかった。

 だが、年々参加者が増え、元国体出場クラスの選手の復活なども目につくようになってきた。最高記録も次々に更新されている。こうした現状から考えると、国内優勝のためにも、いまのインタバル訓練のハーフダッシュ五十米三十七秒を、三十五秒以内に縮める練習に取組まなくてはならない。だがこれは、かなりきつい相談である。到底そこまでは打込めない。意欲の問題だけではなく、それだけの練習期間を継続して確保するのは、むずかしい相談であった。

 智樹はとりあえず、将来のことよりも、現在の肉体的充実感を求めることで、満足することにしていた。ストレス解消、安眠確保、日々の退屈さを耐え抜くという当面の目的は、とりあえず満たされていた。


(1-5) 第一章 暗号コード《いずも》-5