電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6
第一章 暗号コード《いずも》 3
アメリカの情報機関がパール・ハーバーの反省から統合され強化されたのとは反対に、日本の情報機関は戦後の一時期、少なくとも表面上は完全に解体の道をたどった。
一部の機関員は秘密裡にアメリカ軍の要員として採用された。独立にともなって内閣調査室が設置された時にも、CIAが開設予算の四十八%、年間運営費の四十%を負担していた。しかし、アメリカ軍といえども、白昼公然と出入りはできず、MP渉外事務所などという偽装を凝らして連絡に当たった程である。勢い、独立を回復して年月を重ねても、日本の情報機関は日陰者で、アメリカ以外の諸外国と同様、中心がはっきりしない。複雑なだけでなく業務が重複している。アメリカのDCI型の中央統制を主張したりすれば、これは大騒ぎである。
そこで秘密裡の調整のために設けられたのが、この情報関連機関連絡会議、暗号コード名《いずも》であった。
《いずも》は定例および臨時の総会を開く。事務局は常設されているが、専用の予算も事務所もない。コンピュータ・ネットが陰のきずなを果している。参加メンバーの一人一人に暗号コードとパスワードが与えられ、ホスト・コンピュータに登録されている。
主要メンバーの場合には、それぞれの事務所だけでなく、自宅にもヒミコが設置されていた。
《いずも》のトップ組織は内閣官房である。日本でアメリカのDCI長官のように総理大臣の秘密情報顧問の役割を果たしているのは、官房長官なのである。
内閣官房に直結する機関としては、内閣調査室と陸幕調査部第二課分室がある。
法務省には公安調査庁がある。
外務省には調査部があって、在外公館からもたらされる情報をまとめている。
防衛庁では防衛局調査課が情報を統轄しており、目下、情報本部設置による一元化を研究中である。
最大の情報機関要員を抱えているのは警察関係であり、なかでも東京都の警視庁は最大規模を誇り、全国で約四万人といわれる公安情報関係警察官のうち、約三万人を占めている。《いずも》には、警察庁だけでなく、警視庁公安部、警備部、犯罪捜査部特捜課から選抜されたメンバーが参加していた。
郵政省とNTTやKDDは、普通には情報機関として位置付けられていない。しかし、合法か非合法かは別として、いざという場合には、封書の盗み読みも必要になってくるし、現実に電話の盗聴も逆探知も行われている。秘密情報機関が物理的に可能なことを実施しないはずはないのであって、イギリスなどでは郵政省技術部が秘密情報機関MI5と公式の協力関係を保っているのである。街頭の電話線からの盗聴などは下の下の下っ端仕事である。《いずも》は必要と認めればNTTの上層部を通じ、電話局の交換機から直接情報を得ている。
マスコミ機関は、情報源でもあり、情報操作のルートでもある。
智樹が守備範囲とする民間調査機関の参加は比較的新しい。だが、コンピュータの発達とともに、民間の情報機関は急速に巨大化した。世界一のシンクタンクと呼ばれている山城総合研究所、略称〈山城総研〉は、その典型である。山城総研は証券界のガリバー、山城証券の子会社である。当然、産業界の雄たる軍事産業の研究についても世界一を目指していた。経済面の研究だけに止まらず、政策研究にも乗出している。
智樹の山城総研への移籍とホスト・コンピュータの委託管理は、そうした状況の象徴である。〈軍〉〈官〉〈民〉それぞれの利益に基づく合意、あえていえば非合法な〈密約〉がもたらした抜き差しならぬ結果なのであった。
ただし、この〈密約〉の裏には、苦汁に満ちた智樹の記憶が埋めこまれていた。
「君はなぜ、そんなダーティー・ワークにばかりのめりこむんですか」
口調はいつも通りに穏やかだが、言葉の選び方は厳しかった。
防衛研修所の所長、立泉匡敏陸将の温顔が心なし引きつっていた。それだけでも智樹にとっては、ほかの誰の怒鳴り声よりも恐ろしい叱責であった。立泉は智樹の父親の後輩だが任地を同じくしたこともある仲だったので、智樹に対しても親戚同様の態度で接してくれていた。
その立泉に対してであっても、本当の事情を明かすわけにはいかなかったのだ。
「申し訳ありません。特別の事情がありまして」というのが精一杯であった。
立泉陸将はもともと、智樹が防衛研修所教官になった時以来、防衛局調査課員を兼務するという条件に強い不満を表明していた。その後も機会ある毎に、早く調査課から足を洗い、研修所の戦史室で戦史研究に専念してはどうかと催促し続けていたのである。それが今度は、突然の退官と民間企業の山城総研への天下りである。智樹に目を掛けて後事を託す気でいた立泉にしてみれば、期待を裏切られただけでは済まない気分だったのだろう。
最初のきっかけは、ある小さな事件であった。
その事件が智樹の後半生の岐路になってしまった。それ以来、智樹は《いずも》の担当という陰の身分を背負い、段々と深入りする結果に陥ったのである。
防衛局調査課勤務となって六本木の防衛庁本庁に移ったばかりの頃、智樹はかつての師団勤務時代の部下、勝又陸曹に出会った。十八歳で入隊してまだ二十三歳。素直でほがらかな青年である。聞けば、彼も智樹と同じ時期の人事異動で発令され、本庁の基地管理本部建設課勤務になったという。その晩二人は早速、縄のれんを一緒にくぐり、師団時代の想い出話に花を咲せた。だが話の途中で彼が新婚ほやほやだと知った。義理で無理に付合してはと気を利かし、一軒目で切上げた。〈早く帰ってやれよ〉と軽く冷やかして背中をたたいた。それ以来、本庁の構内や六本木の路上で顔を見掛ける度に親しい挨拶を交わし、共通の同僚隊員のその後の消息を交換したりしていた。
ところが二年ほど後のこと、本庁の廊下でパッタリ顔が会ったのだが、勝又はニコリともしない。よく見ると顔色は青白く、表情も普通ではない。不審に思って、
「どうしたんだ。顔色が悪いぞ」と声を掛けたが、
「いえ。別に」と顔を伏せたまま、背を向ける。いよいよおかしいと感じて、とっさに、
「おい。水臭いぞ。何か困ったことがあるなら相談に乗るよ」
とその背中をどやした。しかし、なぜか勝又は、
「済みません」とだけいい残して、逃げるように走り去ってしまった。
いったんは調査課のデスクに戻って、やり掛けの仕事を広げたものの、勝又のいつもと大違いの様子が気になって仕方がない。智樹は基地管理本部の総務課に防大の同期生、草野一等海尉がいたのを思い出して電話をし、パーラーに呼び出した。実はこれこれ、と智樹が事情を話すと、草野は急に顔色を変え、声をひそめた。
「内緒の話だが、悪い噂が流れているんだ。業者との癒着問題で東京地検特捜部の内偵が入っているとか、汚職事件に発展するとか。その噂の中に勝又陸曹の名前が出ている。彼は業者との契約の窓口だからね」
「そうか。ありがとう」
智樹はすぐに調査課に戻り、その種事件を担当している先輩をつかまえた。
噂は事実だった。基地宿舎の新設でかなり大規模な工事があった。談合の裏で関係者に買収の手が延びていたという証拠が挙がり始めていた。しかし、勝又は単に上司の命令に従っていただけで、彼自身に犯意があったかどうかも非常に疑わしい状況だった。どうやら彼は、業者からわずかばかりの供応とプレゼントを受けただけなのに、とかげのシッポにされかけている気配なのだ。基地管理本部の上層部まで関係しているというのが調査課の先輩のにらみだったのだが、彼等上層部は勝又一人を犠牲にして逃げ切ろうと画策しているらしかった。
智樹は怒った。先輩だけでなく課長にも掛け合って、その場で事件の内部調査と解決を買って出た。ただちに勝又に会った。
「俺が事件を担当することになったから正直に話せ」
と告げると、勝又はボロボロ泣き出した。誰からも白い目で見られる毎日に耐え切れず、その苦しみから逃れるために自殺まで考えていたところだったという。
智樹は東京地検特捜部とも直談判し、勝又を救うことに成功した。ただし、勝又の関係した部分だけでなく、事件全体が政治工作によるもみ消しで処理された。
勝又は事件の処理が終ると智樹の自宅に訪ねてきた。
すっかり持前のほがらかさを取戻していたが、前々から妻と相談していたことだと断って、智樹に退職の心積りを打ち明けた。疑われたまま退職するのでは残念だったし、年度一杯勤めないと退職金が予定通りに受取れないのも気掛りだったらしい。郷里の広島の漁村に戻ってカキの養殖を始める積りで、これまでもコツコツと資金を溜めていたのだという。
「これで安心して辞められます。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる勝又の笑顔に、
「辞めるのか。残念だな」
と気軽に受けながらも、智樹はついホロリとしてしまった。
調査課長は、智樹が事件処理に発揮した努力をやたらとほめ上げたが、その魂胆は目に見えていた。直後に、ちょうど転属希望を出していたという先輩の任務を引継いでくれないか、と持ち掛けてきたのである。課長のいい方は実に率直だった。
「これからは君の防大出身が大きく物をいう仕事だよ。我々のような一般大学出には、なかなか現場に入りこめないところがあるんだ」
こういう複雑な心理的コンプレックスを絡らめる人事の攻め方は、智樹にとって弱腰を突かれる感じであった。防大の四年間の全寮制は、昔の〈同期の桜〉の再現であった。智樹は三期生だが、先輩の二期と後輩の三期を合せた通算六期の防大出身者は、いわば同じ釜の飯を食った仲になるのだった。
「彼も自分の限界を感じていたらしいんだ」
となおも課長は攻めこんできた。〈彼〉とは、智樹が今度の仕事を奪った形の先輩のことである。智樹の方にも、いささか後味の悪い思いが残っていたところである。そんなこんなで智樹は、あまり深くは考えずに引受けてしまったのだが、その任務が《いずも》の担当窓口であった。
以来、智樹は窓口業務だけでなく、いくつもの事件の処理に陰の役割を果たすようになった。そして、ある時、ついに自分自身が深い傷口を負ってしまったのである。
「神経回路に傷ができたと考えて下さい」と医官がクールに説明してくれた。
「いわゆるヴィェトナム症候群ですよ。しかし、あなたはその障害を乗り越えられる方です。自力で戦って勝つんです。想い出すのは辛いことでしょう。でも、無理に抑えると、かえっておかしくなります。ただ耐えていても駄目です。意識的に遮断して別の問題に取り組むのが最善です。頭のリクリエーションですよ。もちろん、躰の健康も大事です。スポーツは非常に効果がありますね」
〈そうだ。戦い続けるのだ〉
だが戦いは自分の心身を受身に守ることだけのことではない。
今更、任務を放棄して引返すのは、自ら敗退を認めることでしかないと思った。智樹は常に、心の傷跡の周囲に盛上がった神経回路の醜い結節を意識し続けている。だがなおも、残された能力の全てをかき集め、結節が発散する微少なストレス物質を蹴散らしつつ、果てしない泥沼の戦いを切り結んでいるのであった。
「おそれ多いことではございますが、……」
と前置きは鄭重ながらも、新聞協会理事長が、内心はいかにも得意そうな口調で説明していた。
「首相からも私どもに、Xデイをまたとない天皇制への理解を深めるチャンス、国家に対する信頼確保の場としてとらえ、この方向でかなり大きな一大ページェントとしての展開を考えるように、とのお言葉がありまして、……。
私どもは〈崩御〉という表現で統一することにいたしました」
昭和Xデイ対策の一環であるマスコミ広報についての説明である。
「記者会見の段取りにつきましても、すでに宮内庁と大手マスコミ二十八社が所属する記者クラブが極秘の協定を交わしました。万々間違いのないよう、準備にこれ努めております」
智樹の隣の席には、防衛庁調査課の後輩である徳島二等陸佐が座っていた。配られた御危篤、崩御時に関する報道体制(案)〉のコピーの数ヶ所に赤線を引いて、智樹の肘をつつく。
そこにはすべて〈予め定められた記者・カメラマンとし、その他の方は、取材出来ません(A記章着用)〉という全く同じ文句の注意書きが並んでいた。
徳島は智樹の目を見てから、軽く微笑んでささやく。
「ワープロ文書ですからね。同じ文句の行コピー移動がミエミエですよ」
智樹も不謹慎に及ばぬ程度に微笑み返した。? その文書にも〈極秘〉のハンコの太文字が朱肉でベッタリ押されていた。この種の文書は、これまでも何度か外に漏れたことがあるが、〈極秘〉文書の漏洩といえるほどの騒ぎになったことはない。なにしろ、騒ぐのは個人規模の出版社のミニ雑誌だけであり、協定の当事者の大手マスコミが黙殺するのは当然のことだからだ。
Xデイ対策の準備状況についてはさらに各方面からの報告が続いたが、これまた、智樹にとってはいささかも新しい情報ではなかった。だがなぜか〈Xデイ〉というキーワードの刺激を受けて、智樹の脳裏ではチカチカと薄暗い記憶の連想が交錯し始めたのである。
その朝、智樹は自宅を出てすぐの狭い道路の先に、うっそりと駐車している車を見掛けていた。
灰色の乗用車だった。取立てて珍しい風景ではない。だが、その時、運転席に座っていた黒づくめでサングラスを掛けた男の背筋が、智樹が姿を現した瞬間に、心なしかピクリと震えたような気がしたのである。
その真新しい記憶がチラリと瞼の裏をかすめたと思ったら、今度は、十年以上も前に起きた事件の記憶が急にフラッシュバックで甦ってきた。
〈なぜだ〉と智樹は即座に自問していた。
長い間の陰の仕事の経験を通じて、智樹は自分の脳の潜在意識を重視するようになっていた。
一つは、俗にいう〈勘の働き〉である。
もう一つは、いささか厄介だった。忘れようと努力した過去の記憶の断片が時折起こす反乱なのである。
〈誰かが俺を監視しているのか。それは俺が知っている相手なのか。なにが目的なんだ。Xデイとどういう関係があるんだ〉
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