➡「轢かれたのは零時だった」
『軌』14号 24-41頁に掲載 (12月会・1962.8.10発行)
征矢野愛三は当時の筆名。執筆は1962年4月。
『軌』及び「12月会」の詳細は今となっては不明だが、東京大学同窓生の「堀川敦厚」(TBSプロデューサー堀川とんこう)の短編小説も掲載されており、大学時代からの同人誌と推察される。
「轢かれたのは零時だった」は、約60年前という時代を反映してか、あるいは時代の枠とは別の感性か、一種の不条理劇の様相を呈し、展開は「シュール」である。
作者木村愛二は前年1961年3月東京大学卒業、4月に日本テレビ放送網(株)に入社している。この作品には、学生時代とは異なる企業人としての閉塞感も漂う。
構成は、一部に戯曲風の描写・独白あり、間に学生時代の回顧が挿入され、現在の「私」に戻りつつ、回顧と現在とが結末に収束していく。
下記「時代の始まり」に描かれた「チカラさん」が、ここでも救世主として登場する。モデルは作者が九州で過ごした幼年時代に、祖父に仕えていた青年である。
原本は当時主流の和文タイプ印刷。収録に当たって誤字脱字などは適宜修正。現在の基準では「差別的」な表現も少々あるが書き換えはせず掲載。
6分割(分割タイトルは収録の際につけたもの。原文にはない)
1 交通事故数掲示板の自動化を巡る駅前踏み台演説
2 今日は召集令状の来る日
3 困るのは労働者だけで女性は救われない
4 自由に撫でても良い無料のお尻の所有の概念
5 何さ、あんたら学生だろ
6 チカラさんなら私を救い出せるかもしれない
➡「明日の罪を犯せ」
『軌』13号 (12月会 1961.12.1発行)
シナリオ。征矢野愛三は当時の筆名。東大生時代は演劇部に所属し、出演・舞台装置の制作などを担当。
1958年劇団駒場創設記念公演パンフレットには、演出に久世光彦、舞台美術に木村愛二、キャストに堤堯などの記載がある。
60年安保反対デモ国会突入から1年が経ち、参加した学生たちには虚脱感が残り、前に進めない議論が繰り返される。彼らの前に現れた制服姿の防衛大生に青臭さを笑い飛ばされいきり立つが……
防衛大(三期生)中退、60年安保では国会議事堂南門突入の先頭に立ち、樺美智子の死を目の当たりにした東大生としての木村愛二の体験と、当時の学生たちの思いをほぼリアルタイムで捉え、シナリオとして構成している。
原本は和文タイプ印刷。収録に当たって誤字脱字などは適宜修正。現在の基準では「差別的」な表現も少々あるが書き換えはせず掲載。
6分割(分割タイトルは収録の際につけたもの。原文にはない)
1 60年安保から一年、学生たちには虚脱感が
2 将棋倒しのデモ隊。こんな筈はない、おかしい。
3 防衛大生は自決した少将の一人息子だが
4 これから始まる人生が私を縛っている
5 その激しさは、愛なのか憎しみなのか
6 これは俺の誤ちだ。私達は未来の罪人ね。
左より「軌」表紙・目次・47頁 防衛大制服にて友人と
(大学生の学生服着用は当時普通のことであった)
関連リンク ➡『鉄砲担いだ青春-防衛大生時代』 ➡『木村愛二と60年安保』
➡「時代の始まり」
『SPES』 18-34頁に掲載 (東京大学文学部英文科誌 1960.7.8発行)
2003年8月、『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』として、
木村書店WEB文庫無料公開。
2008年8~11月、メールマガジン「僕等は侵略者の子供達だった」として、
まぐまぐより発行。⇒「メールマガジンの御案内」
2019年3月4日、未刊書籍『僕等は侵略者の子供達だった』PDF版をアップ
(2.3MB)。
「轢かれたのは零時だった」にも登場する「チカラさん」は、すでにこの作品のなかで、幼年時代の救世主として重要な位置をしめている。
➡「厭な奴」
『俺たちは天使じゃない』 第1号 65-71頁に掲載
(東京大学教養学部 32L25 1958.7.3発行)
筆名は一字違いの木村愛治。執筆は1958年4月19日。
2019.4.10時点で確認の掲載同人誌の中では一番古い。習作的な短編。
「32L25」は、昭和32年入学の文二の5(D)クラスを表わす。誌名『俺たちは天使じゃない』と1955年ハンフリー・ボガート主演米映画との関係は不明。
編集後記にはこう書かれている。
学生らしい「遊び」の部分もあり、56-57頁の10項目アンケートに、木村愛二は、酒豪、笑わせる人、ロマンチックな人、面の皮の厚い人、よく授業をさぼる人の5項目に入っている。(授業をさぼるに関しては得票数1位、面の皮は2位)。
59頁の恋人アンケートには「有象無象に見せるのは勿論、話すのも勿体ない程素晴らしい」恋人がいると回答している。
収録に当たって誤字脱字などは適宜修正。