「轢かれたのは零時だった」 4

(文学青年としての木村愛二)

『軌』14号 24-41頁に掲載 (12月会・1962.8.10発行)征矢野愛三

4 自由に撫でても良い無料のお尻の所有の概念

 土工達が娘にわるふざけをし、嬌声が空気を甘酢っぱくかき乱した。私は全く羨ましいね、と呟いた。高校教師が私を見、自分のいささか良い気な演説口調を皮肉られたかと心配しているので、私は弁解した。

 「あの連中ですよ。何の気兼ねもなく女の尻を撫でる。家庭なんてものを信じてないから強姦で間に合わせて、時には目的を遂げて子孫さえ残しちゃう。」

 「馬鹿をいいなさんな。」

 高校教師はすぐに反論して来た。私はきっと説得されてしまうだろう。

 「君はまだこの尻を撫でるとう簡単な欲望についてさえ物事の一面しかわきまえておらんのだ。先ず第一に我々は所有という概念の支配する社会の住人だ。そこで実際にこの概念を一番に尊重しているのは我々のような中間階級なんだがね。我々は自由に撫でても良い無料のお尻をまだ所有していない。私はいまは失っているわけだが。ともかくある種の契約により近い将来に手に入れることが出来る筈だ。こういう状態の人間がおあずけを喰わされた飼犬のように所有の概念に忠実になるのは当然のことだ。ところが一方では、既に大量に所有している連中とくると、良い加減に撫であきて、手ざわりがさだかでなくなるもんだからどれもこれも自分に権利のあるお尻に思えてくる。すなわち、個別的な所有の概念がなくなってしまうんだ。だから、よほどの強い反対で身の危険を覚えない限り、手の届く所にあるお尻というお尻を撫でまわす。我々中間階級としては必死で、それでは約束が違う、不潔だ、と抗議するんだが、容易に聞き入れる相手じゃない。これと全く逆の立場にあるのが、今度は専用のお尻を獲得するチャンスがつかめないと分った連中だ。我々だって一寸した時間の差があるだけで、似たり寄ったりなんだがね。そういった連中となると、もはや所有の概念なんて糞喰え!という考えになる。だからこれも身に危険のない限り誰の尻でも構わず撫でる。これが羨しかったら、君は階級的自己矛盾に陥入っているわけだ。

 「その通りですね。」

 「君にとって逃げ道は三つしかない。所有の概念を解消しなきゃいかんのだから、気狂いになるのが一番の近道だ。さもなくば正気のままで上層階級に取り入り、のし上る。第三の道は下層階級のために働き、仲間入りを頼むことだ。どれもこれも簡単に踏み切れるもんじゃないな。」

 私は同意したが、いずれはその内の一つを選ばねばならぬか否かについては決定しかねた。高校教師は更に私が飲屋の娘を強姦した土工に羨望を禁じ得ないでいることを追求しはじめた。それは歴史的な罪悪だと主張した。歴史的な社会秩序を乱すのは、下層階級が上層階級に対する時、はじめて正当性を持つのであって、下に対する働きかけは、恩恵という形しか取れないものである。土工達が娘を強姦するのは彼等が現在の社会秩序の中では彼等の子孫を残す手段を他に持たないからであって、彼等を飯場に縛りつけ、結婚を不可能にしている社会秩序そのものは、彼等の強姦を非難することは出来ないのだ。しかもその相手の女性達は彼等と同じ階級に属しているのであってみれば、彼女等としても好意を持って受け入れてしかるべき所ではないか。ところが私には現体制の中で女を獲得するチャンスが恵まれているのだから、私が下層の女性を美しさや賢さを理由に結婚の相手として選ぶことは許されても、彼女等の同意、不同意に拘らず、無料の快楽の相手にすることは許されないのだ。土工に於ける強姦は子孫確保の神聖な目的を伴うが、私はその目的のための手段として結婚を選ぶ階級なのである。

 しかし、もし私が下層階級の仲間となることを望み、彼等と共に現体制を破壊しようと考えるなら、私は上層階級の娘を強姦することが許される。それによって私は上層階級から、その相手の娘と、その子供達を脱落させることが出来るからだ。

 「強姦がそんなにしたかったら社長の娘でもかどわかすんだね。」

 高校教師はこう締めくくって一息入れた。

 

 「私、この秋に結婚するの。」

 とFは微笑んだ。私はギクリとしたが、前々から分っていたことだと感じたので冷静に笑顔を作り

 「へえ、そいつはおめでとう。」

 と答えた。そうなのだ。私は答えたのだ。私はちっともおめでたく感じていなかったのであり、私がこういったのは、彼女の宣告に対する返答に過ぎなかったのだ。

 「でも、いつの間にそんなにあつあつになってたのかな、ちっとも気が付かなかったよ。」

 私はFの結婚の相手が知っている彼女の取り巻きの内の誰かなと思ったので、分っているふりをしたのだ。

 「ちがうわよ。見合結婚よ。まだ愛情なんてそう強いものじゃないの。これからね。」

 Fは深々と息を吸い、庭の池のコイを見つめた。彼女の横顔は急速に大人びていた。私は自分に与えられた役廻りを理解し、それを果そうと思った。

 そのために用意された舞台も申し分なかった。Fの父親は基幹産業の専務であり、夏のことで人の無い曖炉の前には手入れの行き届いたグレートデーンが退屈していた。テーブルには私が何度か失敬したことのあるハバナの葉巻が出番を待つ間の昼寝をむさぼっていた。しかし私はいこいをポケットから一本だけつまみ出し、考え込んだ表情になった。Fはロンソンの卓上ライターで火をつけてくれ、予定された台詞を続けた。

 「始めは見合いなんてとても嫌だったの。でも私のうちって、こうでしょ、だから一概にはいえないことだし……」

 Fの結婚の相手は保守党の代議士の息子であり、選挙は近いのだ。Fは気の良い娘で、ブルジョワ趣味の我儘には縁がなく、彼が公団に当選し、そこを当分の住いとすることに不満はないのだ。そこで私が付け足して理解すべきことは一つだけであろう。

 「……ずいぶん考えたのよ。早く返事をしなきゃ悪いし、私としても一生の問題ですもの。親身になって相談にのってくれる友達もいないし……」

 「Kさんとはその後‥‥」

 KはFの高校時代からの親友で既に結婚しているのだ。

 「あの人、まもなく赤ちゃんが出来るのよ。彼女にきいたって、返事はきまってるもの。私達、結婚については良く話し合ったわ。彼女は自分じゃ親に反対されて飛び出してまで恋愛結婚したくせに、見合の方がいいっていつもいってたの‥‥。それに私もぼやぼやしていると二十代の後半にかかっちゃう所だし、ね」

 彼女のほほえみの内的な意志に対して私はこう答えざるを得なかった。

 「僕が卒業する迄待っててくれたって良かったのにな。」

 「あら。でもあてにならないもの。」

 Fの表情は私の答が合格したことを示していた。だが実際にあてにならなかったのはFの方なのだ。私はFが好きであり、憧れてもおり、事情さえ許せば学生結婚をしてでも彼女を獲得したいと思ったこともあるのだ。だがそれは不可能に近かった。私達は両方ともメロドラマには向かない性質だったのだ。受け入れ体制さえ出来ればプロポーズしようと思っている、と冗談のようにいった私に対して、Fも笑い、高校時代の同級生と結婚なんてどうもぴったり来ないわと受け流していた。他人の倍近い時間を掛けて大学を卒業する予定の私は、彼女にそれ以上近づくのは冒険であり気の引けることと感じたし、Fも私とは軽い付合いでいいと思っていたのだ。だから、私達の間は、平凡なサラリーマンであり万年課長のまま停年を迎えそうな私大出の父親を持つ要領の悪い学生の私に大会社の専務の娘の方が仕掛けて来ない限り、メロドラマになりっこはなかったのだ。その点では私が第一候補だと自任はしていたが、Fには恋愛ムード以上のものを求める内的必然性がなかったのである。だから、今となっては私はこうしてメロドラマムードの相手役をつとめなければならないのだ。私は、しかし、それで満足していたと思う。

 「あなたも来年は就職でしょ。世の中に出てみれば色々と面白いことがあるし、きっといい人がみつかるわ。男の人って羨しいわね。」

 とFは半分慰め顔でいった。その通りだった。私はSをみつけ親密な関係を保っている。Fと私とが恋愛ムードにおいての共犯者であったように、Sと私は結婚に関して共犯意識の下に行動しているのだ。

 だが私はFに喰われてしまった。Fは私の訪問の下心を知らなかった。私は彼女の父親に就職のコネを頼みたいと思い、電話したのだ。はずんだ声で、ずいぶん久し振りみたいだ、是非来いというFの気持が推測出来ず、あやふやな期待を抱いていた私は彼女の慰め顔に止めをさされていた。

 Fに悪気のあろう筈がなかった。私にはそのことが良く分っていた。彼女のように透明な心理の持主はそうざらにはいないのだ。Fは常に優しく、愛想が良く、同情心に富んでおり、他人の意図に対する疑いを知らなかった。Fの徴笑は願客の歓心を買う商人のそれではもちろんなく、他人を完全に無視し、軽蔑しているが故の権力者の余裕あるそれでもなかった。Fは他人の善意しか期待せず、善意しか受け取らないで過ごして来たのであり、彼女がクリスチャンであるのはこの意味では当然のことなのだ。私はFとの交渉で何度も傷ついたと感じたが、それは常に私自身が歪んでいたからであり、私は前からあった傷口に気付いたに過ぎないのだ。私はそれらのいつまでもなおり切ることのない傷口が開く度毎に、Fの澄んだ徴笑を思い出すだろう。


5(何さ、あんたら学生だろ)に続く