(文学青年としての木村愛二)
『軌』14号 24-41頁に掲載 (12月会・1962.8.10発行)征矢野愛三
3 困るのは労働者だけで女性は救われない
油っ気のない髪をかき上げ、手を振り、あごを突き出して日本帝国主義の分析に熱中していた学生達は、娘の嬌声に気が散って、何を話していたのか分らなくなった。彼等がこの飲屋に来るのは私のようにそのうらぶれた雰囲気の中にいると気が落着くといった理由からではなく、色々の労働者達の実態が感じ取れるからなのであって、私達の会話の端々から革命への期待を知り、チャンスを測るためなのである。それなのに彼等は、時として労働者階級の自己放棄を目撃しなければならない破目に置かれるのだ。全く勇気の挫けてしまう話だ。彼等の社会主義理想国家建設への意欲はこうした労働者への絶望と不信の念が積み重なっていくにつれておとろえ始め、ついには彼等自身の自己放棄へと進まないものでもない。
私と交通事故数掲示板の自動化について論じていた高校教師はこの学生達の気分を察したので、私にウインクして、彼等に話し掛けることにした。その機会は直ぐにやって来た。飯場工が娘の尻をまた撫でて、笑いが店中に拡がったのだ。学生達が苦笑するとすかさずに高校教師は口を切った。
「近頃の学生さんは気の毒だねえ。赤線が廃止になって以来、童貞のまま卒業するパーセンテージはぐんと高まったそうじゃないか。」
学生達は照れ臭そうに笑った。高校教師は大真面目な調子で続けた。
「ところでな、私は前から不思議に思ってるんだが、売春禁止法ってのは保守党の肝煎りで出来たんだろ。なぜ革新政党は反対しなかったんだろうかね。」
いかにも酒飲みらしい顔付きの高校教師に彼等の先輩であり、血のメーデー事件の闘士を発見し得ない学生はとんでもない酔っぱらいにからまれたものだと思い、素っ気なく答えることにした。
「保守党だってたまには正しいことをやるんだし、そんな時には革新政党もいきがかりを捨てて協力しますよ。」
「ふん、議員手当の値上げなんかがそうだね。しかし赤線がなくなって不便する人は多いと私は思うんだがな。」
「不便する人は自分勝手な悪い人ですよ。」
「そうかな。私の考えでは主に不便するのは独身の貧しい労働者なんだが……。金のある連中はいつでも適当にやっているからね。そこで革新政党ってのは何かと考えると、労働者の味方なんじゃないか。」
学生は腹を立てた。
「良い加減にして下さい。売春は資本主義社会につきものの社会悪なんですよ。」
高校教師は合槌を打ち、続けた。
「その通りさ。アメリカあたりではもちろん売春は禁止されている。ところがやはり資本主義国だからね、コールガールってのが発達しちまってるんだ。知ってるだろ。赤線と違う所は金持ちだけを相手にすることさ。ということはだな、(と彼は調子を上げた)下層階級出身の美女達が売春という悪徳の犠牲になりながら、そこから快楽を得るのが上層階級の男性だけであることなんだ。だから私の考えによると、資本主義社会において売春を法律的に禁止すると困るのは労働者だけであり、女性は救われない。だから革新政党は売春禁止法に反対すべきだ、ということになる。」
学生達は困感した。その反撃の機先を制するために、高校教師は続けた。
「君等は構造改革論をどう思うかね。」
私は酔いが廻ってくるのを感じた。すると私は段々と周囲に溶け込んでいって、物事が理解出来るようになるのだ。この店の女将は十五の時に赤線に売られ、二十になった頃にとっつきの悪いが実のある男に惚れられ、一緒になったのだ。せっせと稼いた金で店を持てる身分にもなった。だから彼女が、わたしはしあわせ者だ、というのは無理もない。その亭主は戦争で死んでしまったが、一人息子は運送会社のトラックを運転してまともにやっているのだ。
若い娘は東北の田舎から家出して来たのだ。上野でポン引にだまされて、何もかも失ってしまったが、首尾良く逃げ出して、この店に勤めることになったのだ。団地の工事が始まって一週間も経たない内に土工に強姦されたけれど、どうせ処女ではなかったことだし、あっさり諦めて、今では楽しみの少ない彼等に同情さえしているのだ。女将も最初は困ったことだと思ったし、娘と一緒に泣きもしたのだが、その噂が土工の間に広まり、味の良かったその娘を見ようと、彼等が群を成して店を訪れるので、稼ぎも上るし、気心が知れてくれば憎めないし、結局これが世の中だと思い返しているのだ。
私は全てに乾杯したい気分になった。飲みかけのコップ酒を握り、私は、高校教師と学生達に呼びかけた。学生はキョトンとし、議論から覚めて、何か私に対して悪いことでもしたかと思っていた。私はもう一度いった。
「乾杯しようじゃないか。」
彼等はあわてて応じた。
「ええ、やりましょう。」
高校教師は私の気持を尊重することにしたが、やはり乾杯の対象が必要だと思うので、私を催促し、私は間髪を入れずに怒鳴った。
「同志トロツキーのために、乾杯!」
学生逮は共産党からトロツキスト呼ばわりをされている一派に属していたが、実際にはトロツキーの著書を読んだこともないので、見すかされたかと恐れ、私とトロツキーについて論じなければならないとしたら彼等の敗北は決定的だと思った。しかし私も彼等と同様の知識しか持っていず、もともと私は議論は嫌いなのだ。理論に弱いだけではなく、私は他人を強制するのが嫌なので、説得と精神的な征服を意図する会話形式には向かないのだ。私はむしろ説得され服従する側にいることを好み、取るよりも取られる側、欺すよりも欺される側にいる方が落着けるのだ。それというのも、私が常に他人を怖れているからであり、他人に憎まれまいと細心の注意を払っているからで、そのためには多少の損害は必要経費として覚悟しているし、軽蔑される位のことは問題ではないのだ。
私は学生達に警戒されないように、無気力で救いのない勤め人の表情を露わにし、酒とヤキトリを注文した。私はそれに対して金を払うだろう。
私は金を払うために給料を貫いい給料を貰うために働いている。
私はその中では金を払うことが一番好きだ。払うべき金が沢山あると私はLのバーにいく。純情なLの稼ぎをふやしてやる楽しみのためだ。Lは私の首に手をまきつけて踊り、しなやかに腰をまつわりつかせ、温泉旅行の夜を思い出させてくれる。私にはLをそう度々温泉につれていく資力はないので、心得た彼女は煽り立てられた私の欲情をアルコールで解消させよう努力し、私は彼女の美味な唇の記憶を大事に抱えて帰途につくのだ。その健気な努力の前には私の払う金額は少なすぎると思い、私はいつも得をしているのだと感じている。
Lは本当の温泉に旅をするのは好きなのだが、手近の模倣は嫌いであり、それは彼女が最初に男に欺された時の哀しさを思い出させるからなのだ。だから彼女が、時たま節度を失って要求する私を拒むのは、私を望んでいないからではなかった。私達は親しみ合っており、疑いをはさむ余地はないのだ。
Lはなんだか恥かしいわといい、それでもたしかに面白そうだと同意した。私は彼女の肩を強く抱いてから離れ、視線の遮断された場所で用意した。私は手近の泡立つ液体を吐いて塗り、薄い皮膜でそれを覆い、反対側に位置付けた。それは布きれの圧迫から自由にされ、のびのびとしているのでLは目立って可笑しいと早口にいい、私を薄暗い踊り場の隅に引っぱった。Lの赤い絹のドレスをすべって、私達が抱き合うと、彼女はくすぐったく笑い、軽く身もだえした。恥しいとまたいい、私の肩に火照った頬を埋めた。私は暖かく、柔らかな感触にひたされて、そこから動きたくなかった。私の腰は気倦い幸福感にうずき、私はLの匂いを胸一杯に吸い込んだ。Lの胸の隆起は豊かに波打ち、私は彼女をしっかり支えていなければならなかった。
Lは不安になり、悪いことをしたのではないかと感じていたが、私は純情な彼女を優しく抱きしめ、本来の目的は私としては果たしたくないのだし、この方が落着けるのだと考えていた。Lは私の素直な姿を感じて安心したくなっていたが、私の唇を信じて気を安めるのだった。私達はもと通り親密であり、節度を保っていた。
私は無知な時代の終りを占領軍用のダンスホールに改造された邸宅の近くに送っていた。年上の仲間は私を連れてそこの植込みの暗がりをのぞき、教えてくれた。私は理解し彼等の語る歓楽境に憧れた。しかし私達に用意された社会は違っていた。それは結婚ブームと家庭電化ブームの時代なのだ。私はその中に引きずり込まれ、骨抜きにされようとしている。私は婚約者のSが予想している貯金のための金を使ってしまおうと努力する。私は常に矛盾しており、私が裏切ることのできるのは私自身と、それと同質なSだけなのだ。
「保守政党が社会正義を唱えるのは、資本家共に都合の良い時だけなんだ。」
と高校教師は気焔を上げていた。今や学生達は完全に煙にまかれ、反論の余地が見出せなかった。
「ナチ党のスローガンに早婚というのがあったのを知ってるか。貧しい青年達は女を獲得するためになら悪魔とでも手を握ろうと思っていたに違いない。その内心の声を引き出したのがヒットラーという天才さ、しかしもっと頭の良い現代の資本家はスローガンなど唱えやしない。青年達を感激させる必要もない。黙って商品を作り、彼等にも買えるように月賦制度を考える。娘達は心地良い電化家庭の夢の実現の為に青年達を改宗させ、不便を感じている青年達は容易くその手に乗ってしまうんだ。娘達は青年を、何々会社の勤め人という経済価値で判断する。彼女等の方が不勉強な青年達よりもマルクス理論の教える所を良く掴み、かつ実践しているんだ。」
学生達はうなずいた。彼等も時折、娘達から経済的な予備価値を認められた覚えがあるのだ。彼等はその時に当惑し、疑ってはいたが、娘達の魅力を否定する気にはなれず、不愉快になる筈もなかった。彼等は一流大学の前途ある青年として認められることが誇らしかったのであって、そのために資本家の陰謀を探り当てる機会を逸していたにすぎず、咎められる筋合はないのだ。