《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!
電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1
第三章 NHK=マスコミ租界《相姦》の構図 3
郵政省詰め“波取り記者”とNHKの微妙な関係
もうひとつの放送関係記者は、郵政記者クラブの要員だ。こちらは、いくら何でも「番組の批評だけ」というわけにはいかない。すでに一九七三(昭和四十八)年の記者会見の模様を紹介したところ。むしろ、飯田次男の台詞を借用すれば、「NHKの組織がどうのこうの」ということを、郵政行政の面から追及するのが、仕事の本筋である。
だが、例の記者会見の時は、まさに異例。飯田次男の暴言と、のちにふれる土地問題、市民運動の盛り上がりなどがあって、初めて出来た追及といえる。それというのも、郵政省は戦前の内務省なきあと、唯一の言論統制監督官庁という立場。新聞社との利害関係が強いから、記者クラブとの癒着が最も進みやすいところだ。電波免許はもちろんだが、それも放送だけではない。
一般には、新聞と放送の系列化、そのための電波利権をめぐる政権党との癒着関係が問題にされている。だが、郵政省の電波監理は、新聞社や通信社には必要不可欠な通信用電波も含んでいる。しかも、無線だけではない。有線の電信電話回線のすべてから、宇宙衛星による通信までが、郵政省の管轄下にあるのだ。具体例を示すと、戦前の同盟通信への一本化に際しても、国際電話回線の取り上げの脅しで最終的なダメ押しがなされている。そういう長年の政治的構造が、テレビ用電波の分捕り合戦で、さらに利権臭を強めるに至ったのだ。
郵政記者クラブには、民放テレビ局は参加していない。このことも、郵政省=大手紙=テレビ局の関係を端的に示している。郵政省の広報室員からは、面白い答えが返ってきた。「民放は郵政省の取材はしないんですか」と聞くと、「本社の方からお取りになっているのだと思います」というのだ。
つまり、郵政省広報担当者の頭の中では、テレビ局は大手紙「本社」の出先機関でしかない。そして、少なくとも郵政行政に関する限り、そうとしか考えられないのである。KDD事件の際には、テレビ朝日が郵政省の入口で取材をやり、その質問を受けた電波監理局のエリート官僚が怒って、「監督官庁に何を聞くんだ」と、つい本音を洩らした。これなども、“日常的なつながり”を欠いていたための“暴発”であろう。郵政省は、それほどの奥の院になっているのだ。
しかし、同じKDD事件をひとつの突破口にして、郵政記者クラブの実態は、わずかながら活字にされ始めた。
「“タカリの構造”といえば、忘れてならないのが『新聞記者氏』の活躍である。ある消息通氏にいわせると、松井や日高なんて比じゃない、一ケタ違う『現金収入』を得ていた“大記者”もいたという。
『郵政省の記者クラブに、大物記者が二人いたんだが、この二人は、板野とも仲がよかった。板野の意に沿わない政策が電監室で計画されていると、役人の個人攻撃の話が流される。この情報を伝達するのが新聞記者だ。誰々は生意気だとか、官僚的だとか、それが紙面に出なくとも国会に流される。国会議員に顔の広い記者もいるからねえ』……」(『週刊新潮』’81・4・3)
そして“KDD太り”といわれる美食の目々。だから、KDD事件を担当した社会部記者たちは、「情報が洩れる」と警戒して、郵政省詰めの政治部記者をシャットアウト。しかし、「本社」は依然として大物記者を郵政省に送りつづける。
なぜだろうか。
「“波取り記者”と呼ばれる記者がいる。“波”とは『電波』のことだ。毎日、郵政省三階の豪華なソファのある郵政記者クラブに出かけるが、記事は書かない。書かないが、郵政十年、二十年という大記者なのだ。肩書も次長、論説委員が十数人いる。彼らは、書かずに何をしているのかといえば、きょうは大臣とだれとが会ったかとか、どの地方にどんなテレビ、ラジオ電波が計画されているのかなどの情報を探っている。この記者クラブを別名『日なたぼっこクラブ』と呼ぶのも、一見のんびりと、毎日の締切りに追われていないからだ」(『現代』’80・7)
情報の送り先は「本社」だったり、派閥だったりする。朝日新聞にはラジオ・テレビ本部があり、本部長は元政治部長の畠山武。読売新聞にもラジオ・テレビ推進本部があり、本部長の青山行雄は常勤取締役の実力者。テレビ局九社の社外取締役にもなっている。元政治部記者だが、内務省事務官を経て読売に入ったところがミソ。元警視庁警務部長の故正力社主やその女婿で内務省から自治省事務次官までやった小林与三次社長(前日本テレビ社長で現会長)という、読売新聞社内の内務省閥の系統だ。当然、政界にも“同期の桜”や先輩・後輩、元内務省グループを通じての太いパイプを持っている。
毎日新聞には、この種の組織がない。TBS系列やそのバックの電通が、イニシャティブを握っているためだ。サンケイ系列では、フジテレビの方がはっきりと優位に立っており、フジテレビの電波企画室が中心になっていた。いまサンケイのラジオ・テレビ室長である播上英次郎は元フジテレビ電波企画室長。鹿内ワンマンが、フジテレビの社長からサンケイ社長になる際に、一緒に連れこんだという人事。その下で、前述の青木貞伸退社の一幕が演じられたのである。
こうして、“波取り”専任の記者さえ常駐体制となった。しかし逆に、郵政行政のベールは厚くなるばかり。NHKでは“第三記者クラブ”の電波記者会所属の業界紙記者の方が、よっぽどジャーナリストらしい仕事をするという現状になっている。取材対象も、郵政省、NHK、民放、電機業界と、全体をカバー。大手紙が人員ばかり増やしても、権力に癒着するクラブ取材では全く真相に迫る報道は出来ないという例証が、ここに典型化されている。
さて、新聞側の問題が長くなったが、もうひとつNHKそのものも、郵政記者クラブのメンバーなのに、その活躍ぶりについては、あまり知られていない。しかし、構造的には、NHKそのものが新聞の「本社」とラジオ・テレビ局を合わせたようなもの。民放と並行して、全国にテレビで三系統、ラジオは中波で二系統、FMで一系統を張りめぐらす、日本最大のネットワークである。
放送の免許は施設免許なので、NHKといえども出先のUHF局のひとつひとつまで、大臣のハンコを頂かなくてはならない。その上、毎年の予算承認、何年置きかの受信料値上げの際には、郵政省どころか、自民党の総務会にまでNHK会長らが伺候する慣行。とてもとても、郵政省や逓信族議員の御活躍ぶりを、非難申し上げる立場ではない。ローカル放送局の免許では、民放と競合しながらも、一面では共同作戦。《チャンネルプランの修正》と称する使用電波の拡大については、アベック闘争ということになる。
これだけの関係があれば、かの有名な建設業界なみの癒着は、ただちに完成する。しかも、テレビ時代の初期には、その建設業界出身の《元祖》闇将軍、田中角栄が郵政大臣だったのだから、あとはいうだけ野暮な話なのかもしれない。
さて、こういう政界とマスコミ界の癒着関係が、NHKの周辺をぼやかし、受信料を含めた実態追求を困難にしている。くり返しになるが、その接点こそが、他ならぬ《記者クラブ》なのである。
一般人の眼には、《記者クラブ》が取材基地のように見える。当の記者を含めたマスコミ関係者のほとんどさえ、うすぼんやりと、そういう位置付けをしてしまっている。
しかし、ちょっと頭を冷やして考えれば明らかなように、本来からして官許で貸与の場が、政財界の内幕追及の場になるわけはない。官庁クラブは、政府側発表のコピーを入手する場所だが、この発表記事(リリース)方式の先輩国アメリカでは、《ハンド・アウト》という新聞記者用語がある。《ハンド・アウト》とは、裏口でこじきに与える残飯のことであり、発表コピーで記事を書く記者は、さしずめ《こじき記者》、そして官庁記者クラブは、《こじき記者のたまり場》というべきだろう。アメリカでもまだ、クラブ取材に頼らぬ伝統が生き続けていることは、さきのニクソン=ウォーターゲイト事件で、ワシントン・ポストの二人の記者が示してくれた。日本でも、さきごろ、朝日新聞の記者が《盗聴事件》を起こしたが、当の記者は、クラブ取材をしないので恐れられていたという。惜しい人物だ。
だが、わずかな例外を除いて、大半のサラリーマン記者は、クラブ勤務を守り切るのが精一杯。気持はあっても、裏面(いや、本来の正面か?)取材には手が出ない。下手に動けば、デスクに怒られることさえある。つまり、ジャーナリストとして、一本立ちの判断が出来ないのだ。しかも、総合紙とか総合テレビとかいいだすと、そのこと自体が足かせになる。急所の弱みが出来てくる。いわゆる頂門の一針である。
「新聞・電波関係の記者とは“平河クラブ”を通じて結ばれており、特にリレーションについての問題はないと思われる」
一九七三年二月に、電通が提案した「自民党広報についての一考察」には、こう書かれていた。“平河クラブ”とは、千代田区平河町にある自民党本部の記者クラブの通称。新聞・放送記者百五十人ほどが登録されている。これに加えて、“永田クラブ”と通称される内閣記者会にも約三百人の記者がいる。そして、政府、政権党=自民党、派閥の発表をセッセと“たれ流し”報道。時折は野党筋からの批判も加わるが、おおむね中央からの世論操作に一所県命というのが、大勢である。つぎの段階では、こじき根性を見込まれて、台所に上げられる。いわゆる夜討ち朝駆け取材で、果ては日本でも、《ポチ》というマスコミ俗語が生れた。つまり、こじき以下、飼犬同然という状態。これでは、チョウチン記事は書けても、田中金脈やロッキード汚職の追及には、立ち遅れるのも当然だ。
話がひろがり過ぎたが、こういう“総合”マスコミともなれば、一人の記者や一部門だけが出過ぎた真似をすれば、“総合”的観点からのチェックがなされる。鋭い追及は、構造的にも困難なのである。