『NHK腐蝕研究』(4-1)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第四章 NHK《神殿》偽りの歴史 1

日本放送史の利権的出発点

 いまのNHKは、発足してから一年間だけ、東京、名古屋、大阪の、三つの独立した法人組織だった。

 電波発射は一九二五年で、いまから五十六年前。そこへ至るまでの経過にも、当初から電波利権をめぐる動きがあったことが知られている。ただし、そこはNHK。利権争いを排除するために、“公益社団法人”東京、名古屋、大阪の各放送協会の設立と相成ったのだ、と話をうまくまとめ上げている。流行語を使えば、“クリーンNHK”のスタートである。いくつかの“公史”も、このパターン。“民営的”で“民主的”な方向を目指したNHKが、あのいまわしき軍靴に踏みにじられたのだとばかりに、“被害者”NHKマンの肩を持つ。しかし、歴史の真実は残念ながら泥まみれである。命を的の軍人は、しょせん使い捨ての将棋のコマ。SF少年の夢がスペースシャトルの軍事利用で無残にも汚されていく昨今と、鉱石ラジオに神秘のおののきを覚えた大正期とは、そんなに離れてはいないのだ。

 NHKの裏面史は、意外な角度から追求されはじめた。『読売新聞・日本テレビグループ研究』の著者、征矢野仁は、日本テレビの創立社長であり、大正末期に読売新聞に乗り込んだ“中興の祖”、正力松太郎の過去を洗っていった。そして、本人の晩年の自慢話通りに、正力が、日本の放送史の前夜に暗躍していた事実をつきとめた。ダボラも多いが、それだけに、おどろおどろの底流が、垣間見えてきたのだ。

 もしかすると、元警視庁警務部長という曲者の正力は、ラジオを押えるための前段作戦として、読売新聞に送り込まれたのではなかろうか。読売新聞の社史そのものさえ、三井、三菱などの財閥が乗り込み資金を拠出したことを記している。しかも、最大のバックアップは、元内務大臣の後藤新平とあっては、まさに臭気ふんぷん。何が企まれていたのか、想像も及ばないものがある。

 そして、東京放送局の初代総裁には、後藤新平その人が就任した。後藤らの推挙で、電機メーカー芝浦製作所の社長だった岩原謙三が、初代理事長となり、一年後には、全国を統一するNHKの会長になる。

 正力、後藤、岩原と、ここで紹介した三人の“先覚者”は、NHKの公史ではいささかもふれられてはいないのだが、いずれ劣らぬ“前科者”であった。それも、比喩的な意味ではない。田中角栄のような“刑事被告人”という宙ぶらりんでもない。三人とも、はっきりした“有罪”の判決で、投獄もされているのだ。

 後藤新平のは相馬事件。正力松太郎のは京成疑獄事件。岩原謙三のは、かの有名なシーメンス・ビッカーズ事件。このロッキード事件と比較される海軍の造船汚職事件で、岩原謙三は被告として法廷に立ち、二重帳薄の作成過程の証言もし、有罪(懲役二年の刑)を宣告された。それが三井物産の取締役時代のこと。そして、芝浦製作所の社長に出世してからも、鉄道省の疑獄に顔を出し、“構造汚職”の先駆者の地位を獲得した。ものの本では主役級の人物である。

 こういう、いわば“ハクつき”の親分衆が,日本の放送史を拓いたのである。時の日本国首相も、加藤高明という、あまり名の売れなかった人物だったが、三菱財閥の女婿として知られ、日本の歴史上初の財閥出身首相として、時代背景の説明に役立っている。いわゆる国家独占資本主義時代の開幕である。

 そして当然、利権あさり、買収の横行。軍部の腐敗、中国侵略から第二次世界大戦へと、ファシズムのなだれ現象。ラジオの発足からパール・ハーバー奇襲攻撃にいたるまでに、わずか十六年しかかかっていない。

 また、ラジオとテレビの歴史を通じて見ても、日本の高級官僚の悪がしこさは、世界一である。ラジオ、テレビ、そして多重放送に関する免許のおろし方にいたるまでが、日本官僚主義の好例である。

 ラジオ発足の際には、すでに実用化されていた「無線電信」の実情の上に立って、「無線電話」(ラジオ)をもひっくるめた法律を、さきにつくっておいた。一九一五(大正四)年の「無線電信法」がそれで、第一条には「無線電信および無線電話は、政府これを管掌す」となっていた。そうしておいて、第二条第六項の「前各号のほか、主務大臣において特に施設の必要ありと認めたるもの」という規定に「法的根拠」を求めて、省令のみにより、つまりは議会の議決を経ることなくラジオ放送を発足させた。

 その間の事情については『読売新聞・日本テレビグループ研究』の追求があるので、ここでは省くが、この措置をとるについては、海外事情も充分に研究したと記録されている。要するに、いかに国民と議会を愚弄するかを、国際的事例を集めて研究したのである。

 ついで戦後、テレビの実現を直前にして、民間ラジオを認可しながら電波・放送法をつくり、テレビ発足時には、その法律で間に合わせた。この手口は、さきの「電信=無線電話」を、「ラジオ=テレビ」の組み合わせにかえてみれば、同巧異曲のものであることがよくわかる。そして、あとはすべて省令で処理してきたのである。

 ついでに見ると、最近の「多重放送」“実用化試験”の範囲拡大についても、やはり省令改正のみで押し通している。「省令」といえば、もっともらしいが、要するに国会を通さないヤミ手続きなのである。高級官僚の独断がまかり通り、実弾がみだれとぶ「電波利権」の世界が、ここに開かれるのである。


(4-2)“富国強兵”から“東洋大放送局”への大風呂敷