『NHK腐蝕研究』(7)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

あとがき

 いま校正のゲラ刷りを再読してみて、やはり、いい足りない点が多いことを痛感する。最初に作成したメモの項目からいうと、その十分の一も消化していないのである。

 そんなことで、金一千二百円也を投下していただいた読者に相済むのかと、一応生真面目に反省するのだが、そこは御了解願いたい。少なくとも、オカルト出版よりは一冊分の製造単価は高いし、わたし自身の労働力支出も、生来愚鈍なためもあって、密度は高いと思っている。

 NHKについては、実現不可能だといけないので小声でいうが、国会論議を中心としたものと、歴史を掘り下げたものと、あと二冊、本書と合わせての三部作にしたいと願っている。それを前提にして、大いに御批判を賜りたいものである。

 とくに本書では、あちこちにかみついたから、おしかりも多いと覚悟している。だが、簡単に意はつくせないものの、わたしは仲間内の論争をも、公開で、しかも血みどろになってやるべきだという信念を持っているのである。確かに、近年の大脳や神経の生理学的解明によると、いわゆる「礼」の経験法則の正しさは、ますます証明されていくかに思える。しかし、精神的な格闘なしに生きるものには、その「礼」の価値すらが不明なままに終るであろう。「闘」があるから「礼」もあるのである。しかも、生態学の観察結果によると、どうやら、「攻撃」と「愛情」とは、同一の本能にもとづくものらしいのだ。

 そうだとすれば、戦争をも含む肉体的な闘争への本能を、一方ではスポーツによって、他方では精神的な攻撃と防禦の闘争によって、前向きに発散していくべきではないか。現実のジョーク、ブラックジョーク、いびり漫才等々の流行は、それを求める白然な流れなのではないだろうか。もしかすると、いわゆる革新とか前衛と称する勢力は、わたし自身もその一部分なのだが、「組織配慮」云々によって、実はいささか保守化し、大衆的な論議を妨げているのではあるまいか。等々。そのこと自体についても、論じたいことが山程あるのだ。

 それはさておき、すでに早くから、「マスコミ研究者相互にかなり共通的にみられる“ナレアイ性”を指摘しておかねばならない」(『放送学研究』22号)とする識者もいた。マスコミ“学会”が日本医師会のような組織にならぬよう、外野からも刺激しつづけなくてはなるまい。

 そのひとつとして、かみつきついでに、本書の印刷作業が夏休みにはいっていた間に出た『メディア・権力・市民』という共同著作についても、一言しておきたい。まず、大いに教えられる点があるが、それを列挙する場ではないので省く。「NHK受信料」の項もあるが、それについては「収納率」の数学的研究がないことのみを苦言とする。一番気になるのは、本の題名で、いわゆる“さんだいばなし”なのだが、その根拠説明を聞きたいのである。

 内容からも明らかなように、これは「メディア=市民」対「国家」という“古典的”「二極構造」から、「メディア」対「市民」対「国家」という「三極構造」への移行論による命名であろう。だが、その「三極構造」論の正しさを論証する努力は、ほとんどなされていないのだ。もっとも、この本では、「三極構造」理論の出生地が記されている。『アクセス権とは何か』(岩波新書)という教養書では、いきなりこの「三極構造」が、神託のごとくに現われたので、びっくりしたものである。説明によると、「三極構造」の考えが出された初めは、一九四〇年代後半、場所はシカゴ大学内で、タイム社とエンサイクロペディア・ブリタニカ社の寄付金で設立された研究機関、「プレスの自由に関する委員会」によってである。一九四七年の報告書が、この考え方を定式化し、流行の基を作ったらしいのだ。

 つまり、「体制側」というのはキツイとしても、少なくとも「体制内」で許容された研究、そしておそらくはニューディール政策の影響下の、修正資本主義的研究の結果といってよいだろう。

 この種の現状規定を、そのまま無批判に取り入れて、どうして国家権力とのたたかいに生かせるというのだろうか。その上、もともと、「メディア=市民」対「国家」の「二極構造」なる“古典”学説も、正しいとはいえない。そして現在の状況は逆に、「国家=メディア」対「市民」だといえなくもない。少なくとも、そういう立場の理論研究も手元にあるのである。

 たとえば、イギリスのラルフ・ミリバンドによる『現代資本主義国家論~西欧権力体系の一分析~』(田口富久治訳、未来社刊)では、マス・メディアを政党政治などと一緒にして、権力の「正統化過程」のひとつとして取り扱っている。この立論からすれば、いわゆる「三極構造」論なるものは、「正統化」に協力して、メディアの中立幻想をスローガン化することにさえなりかねないのである。

 ともかく、こんな“流行語”についてさえ、まったく論争が起こらないようでは、専門外の読者は戸迷うばかりである。その上、あのNHKの口八丁手八丁とくれば、ますます本質を見失うことになる。

 そこで一言。どこで「本質」を見抜くべきか、という考え方だけを述べておきたい。それは、金ならば試金石、体制ならば、その存亡の危機に直面した時であろう。そしてミリバンドは、NHKがことあるごとに引き合いに出すBBCについて、典型的な実話を紹介してくれるのである。

 「BBCが民衆のためにあり、政府も民衆のためにあるならば、BBCはこのような危機にあって政府の側に立たねばならないことになる」

 これが、ゼネストの際にBBCの総支配人が、イギリス首相に書き送った手紙の一節だというのだ。かくてBBCは、ヘビがシッポをかむように、「民衆のために」「民衆のゼネスト」を鎮圧する側に組みしたのである。まこと、イソップ物語のような語なのだが、日本ではどうだろうか。

 また、もっと論争を早め、強めないと、急速な右傾化の動きと対抗しきれないのではなかろうかと愚考する。みずからの非力もかえりみず、各方面に盾ついたのは、そんなあせりからでもある。

   一九八一年九月

     徳永正樹