《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!
電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1
第三章 NHK=マスコミ租界《相姦》の構図 1
NHK広報室の黒い水脈とゲッペルス広報室長
さて、今後の問題として注意してほしいのは、さきのような受信料収納率「トリック」暴露のタイミング、一九七三(昭和四十八)年二月といった時期と、「郵政省の記者クラブ」といった場所である。そして、ある記者による「きびしい追及」があって、はじめてNHKは資料を提出したという事実だ。
だが、このようなNHK受信料のカラクリは、その後、それほどにきびしい世論の追及を受けただろうか。新聞は、お得意のキャンペーンを張っただろうか。昨一九八○年の値上げ申請に対しても、同じ疑問が出されただろうか。
否である。
NHKの受信料問題で、“キャンペーン”を張ったと一部評論家筋によって伝えられているのは、一九七三年一月以降の『読売新聞』だが、それは内幸町の売値のバカ高さがあったからで、記事そのものも散発的。見出しも小さい。“キャンペーン”というより、語源は同じだが、シャンパンの泡がふきこぼれたくらいで、本質論とは関係ない。むしろ、ほかの問題の煙幕になったようにも思えるが、そのことはのちにふれる。
ここでは、視聴者大衆の一人一人にとってみれば、NHKとの唯一の経済的関係である受信料の実態追求に、あくまで執着しよう。ではなぜ、この受信料のカラクリは、あいまいなままにされてきたのか。まず、さきの「郵政省の記者クラブ」周辺をのぞいてみよう。
この“普及率”カラクリ暴露の前々年、一九七一年の正月は、NHKの広報室にとって、悪夢の月だった。それというのも、こともあろうに、NHKの“広報室長”という肩書の人物が、古今未曾有の暴言を吐いてしまったからである。
「たかが新聞記者のブンザイで、NHKの組織がどうのこうのといえる身分かよ!」(『週刊文春』’71・3・1)
これが“広報室”、つまり常識的には一般視聴者にNHKのことを、対外的に宣伝するための組織の長の発言だというのだから、恐れ入ってしまう。しかしそこは、官庁なみとか、それ以上の伏魔殿とかいわれるNHKのこと。常識で考えると逆さまになる場合が多いのだ。
話をさかのぼると、NHKの大奥の内部事情が大規模に洩れ始めたのは、いまを去ること十五年前。
一九六六年の暮に、『知られざる放送』という匿名著者グループの単行本が出た。そして、「さる情報筋の話によると、佐藤首相がこの本を読んで激怒、カンカンになってこういったそうである。
「『NHKともあろうもんが、事前に押えることもできなかったのか!』……NHK記者クラブの某氏によると、局内の発火点は某理事で、『いったい犯人はだれだ!』と、広報室にどなりこんだという」(『宝石』’67・3)。
この本には、NHKだけでなく、民放の問題も取り上げられていたが、民放の部分はすでに労組などが公表した資料の域を出ておらず、逆にNHKの内情は、日放労が外部へ訴えていなかったことがゾクゾク。見る人が見れば、NHK内の“左派勢力”が協会当局にも日放労に対しても“造反有理”の攻勢をかけたというのは歴然。元電気通信大臣として電波利権を一手に握り、マスコミ操作の自信を深めていた佐藤“エゴ”作が、虚をつかれて怒るのは無理もなかった。
だが、「犯人はだれだ!」とNHK理事がどなりこむ先が、「広報室」だというのがおかしい。“広く報せる”のではなくて、いわば、NCIAだ。局内から情報が洩れるのを、監視する役割を負わされていたのだ。
もともと、“伏魔殿”NHKを、「あなたのNHK」「みんなのNHK」などと売りこむには、相当な図々しさがなくては勤まらない。そして図らずも、NHKにこの人材ありと、“広く報れわたる”事件が発生したわけである。一九七一年一月二十五日、『週刊文春』(3・1)が「NHK開局以来の大捕物」という特集記事を組む大事件。それ自体も、いまもなお脈々と続く「NHK視聴者会議」の代表者、佐野浩(小金井市議)らへの暴行・警官二十名出動の逮捕、十三日の拘留という語り草。しかし、NHKの黒い水脈が吹き出たのは、そのあとの『週刊文春』の取材からであった。
「こういうヤツラヘの対策? そんなものはなにもない。NHKの受信料とは、放送法で契約とし支払いの義務を明文化されたものじゃないか。それを払わないヤツラは、われわれがマトモに相手にすべき人間じゃないね。
だからボクなんぞも、こんなヤツラには会わないよ。なにが会う必要があるか、こんなカネも払わないヤツラに。
佐野なんてヤツは売名運動ですよ。ディック・ミネなんてヤツが、白己宣伝のために反NHK的発言をするのとまったくおなじだ。ディック・ミネなんて、自分のツラを鏡にうつしてみろってんだ。テレビに出られるツラかい。
佐野は小金井の市会議員選拳に出るために、ああやってワザとつかまったんですよ。こっちはチャンと地元から情報をとってあるからわかるんです。
それをバカな新聞記者がマにうけて、デカデカ報道するんでアイツは大喜びですよ」(『週刊文春』’71・3・1)
NHK視聴者会議とは、この事件の前年に小金井市の文化人有志が結成したもの。NHKに対して八項目からなる質問書を出し、回答を求めていた。一向に返事がないので、当時の内幸町のNHK会館を訪れ、回答があるまで待つと伝えた。もちろん、何等の武器も携行せず、暴力行為に及んだわけではない。それなのにNHKは、“不退去罪”だとして、いきなり丸の内署の警官隊を導入したのである。十三日間という長期拘留にも問題はあるが、ともかく、“不退去罪”は成立していない。NHKのやり過ぎは明らかであった。
ところが、この過剰警備の余勢を駆ってか、当時のNHK前田会長の右腕とか左脚とかいわれるほどの実力者、理事待遇という飯田次男広報室長の口から、とんでもない台詞が、それこそ傍若無人、ジャカスカ飛び出してきたのだ。
すでにあげた長口舌にも、問題点は多い。視聴者を馬鹿にしているだけではない。タレントを何だと思っているのか。電波独占の思い上がりが、言外にあふれ出ている。現実にも、タレントでNHK受信料不払いを公言する例が見られないのは、こういうNHKのファッショ支配あればこその現象である。つぎには、市議云々である。つまり、NHKは、視聴者会議への回答をせず、どう手を回してか、佐野浩(当時は学習塾経営)が小金井市議に立候補することを知っていたのである。大方、サツ回りの記者を使った仕事だろうが、それを中傷の材料にするなど、下の下の仕業といわねばならない。
しかも、視聴者運動へのバリ雑言だけでは足りず、飯田次男は、こういい切った。
「ボクは、新聞記者のヤツラがNHKの組織の批判などするとここへ呼びつけてどなるんだ。『おまえら、たかが新聞記者のブンザイで、NHKの組織がどうのこうのといえる身分かよ!おまえらはできた番組だけを批評してりゃそれでいいんだ』とこういってやるんですよ」(同前)
これだけなめられた新聞記者も新聞記者だが、さすがに、これは聞きとがめて、謝罪文を取った。前田天皇の忠犬、飯田室長は、この暴言で受信料支払い拒否者を激増させ、ついに引責辞職に至るが、のちに顧問、小野元会長並みの待遇をされている。
だが、翌一九七二年秋には、追い打ちの第二弾、小中陽太郎の『王国の芸人たち』が発刊された。
小中陽太郎は、NHKとの契約者の立場にある音楽家集団を取材した。そして組合(日芸労)の指導者「大石」解雇事件の隠然たる下手人として、元スポーツ・アナウンサー「飯山」の存在を発見する。しかも同時に、その「飯山」が、解雇事件の三カ月前から,『中国新聞』に「マイク二十年」と題する連載を出し、戦後の新聞・放送ゼネストの山場でのスト破りを自慢している事実をつかんだ。
「私は文字通りスト破りを決行したのである。それから三日目にさしもの大争議も終わったのである」(同書)
これが「飯山二男」こと、飯田次男の、誇らかな戦歴であった。
小中陽太郎は、この作品を書くに当たって、相当量の資料の提供を受けたと語っている。つまり、解雇反対闘争の裁判準備などによる資料の収集者が、別にいたのである。小中の描く「飯山二男」像はこんなものだ。
「飯山二男は、志東良順とともに、戦後のスポーツ放送のスター・アナウンサーであった。志東がプロ野球で鳴らしたのに対し、飯山は六大学や競馬を手がけた。焦茶のステットソンのソフトを陽焼けした額にあみだにかぶるのが得意のポーズだ。だが、飯山が志東と違って、アナウンサー一本から行政職に転じたのにはある隠された経緯があった。
飯山二男は、終戦直後新聞放送界の大ストライキに際し、東京のアナウンサールームにあって、これを切り崩した。飯山が、どれほど、このスト破りを終生の自慢としていたかということは、大石の馘(くび)を切る三月前の昭和三十五年の三月一日に、彼が中国新聞の『マイク二十年』と題する連載物に、得々としてその思い出話を披露していることからもよくわかる。その文は図々しくも『アナ一人一人を説得、病をおしてスト破り決行』という題がついていた」(同書)
ついで、『中国新聞』の手記が紹介される。放送ストについては、戦後史の項でふれるが、まず、そのスト破り犯人の自白を先に聞いておこう。
「労働法の何たるかを知らず、争議行為とはどんなものかわからない組合が、一部指導者の煽動によってわが国放送史上に一大汚点を残すような“大義名分”のないストライキをやらかしたのである。
私は腹を立てた。即刻私の部屋へ組合の委員長を呼びつけた。『あのビラを張った責任者は誰だ、人の名誉を傷つけてそれで健全な組合がなり立つと思うか。オレは罪人ではない。あんなビラ位でオレが引っ込むと思うか。オレはそんな意気地なしではない。言論は自由の筈だ。オレがオレの意見を後輩にはいて(スト中止の意味、筆者)何が悪い。大体ストライキしてくれと誰が頼んだ。オレは反対なんだ。たった今オレは組合を脱退する』
怒り心頭に発するとはこのことだろう。私はあらん限りの声を張りあげてどなりつけた。
しかし、この時、私は独自の行動をとろうとひそかに決心したのである。
それから組合幹部は手をかえ品をかえて私をなだめに来たが断然きかなかった。その翌朝、私の家に有志が集り、悲壮な決心で声明文を作りあげた。“われわれは放送人として、これ以上聴取者に迷惑をかけることは出来ない、本日ただいまから就業する”と言うのである。
私は部屋ヘアナウンサー全員を集めた。『僕と主義主張を同じくする者は僕と行動を共にしてくれ。反対者はこの部屋を出てくれ』と声涙共に下る演説をぶったのである。反対者は一人で、私以下三十八人が署名を終った。直ちに私は声明と署名を持って山野岩三郎会長に会見を申し込んだ。
一カ月近いストライキで疲れていた会長は、涙を流して私の手を握ってくれた。十月二十五日のタ刻であった。
やがて午後七時、スタジオヘ入って私は冒頭に名乗った。『私はアナウンサーの飯山でございます。ただいまからニュースをお伝えします』
誠に感激的な一瞬であった。
私は文字通りスト破りを決行したのである。それから三日目に、さしもの大争議も終ったのである」(同前)
これでみると、アナウンサーのボスだった飯田は、組合の委員長を呼びつけ、怒鳴りつけることができる立場だったらしい。この自慢話自体がどこまで本当かどうかはわからないが、当時のNHKで、アナウンサーの地位が高かったのは確かだ。前述のように、報道記者はおらず、同盟通信なり大本営の発表を、アナウンサーが読みやすいように手を入れ、あの調子で読み上げるだけの時代のこと。なかでもスポーツ・アナは、政治向きではないから、自分でアドリブを入れられる“特権”的な仕事。肩で風を切って歩いていたらしい。
ともあれ、飯田アナ晩年の暴言は、戦後史解明にも一役買うであろう。
「まさに『NHK帝国』のヒトラー(いや、ゲッペルス宣伝相かナ)的発言であり、ジャーナリズムに対する挑戦状だと言わざるを得ない」(『文芸春秋』’71・4)
これはちょっと、格を上げ過ぎたようだが、ともかく、NHKの広報室長が、新聞記者を脅しつけては、NHK批判を封じてきた。その事実を、本人がまた、自慢してしまったのだから、これはお家の一大事だった。
背後には、元朝日新聞の前田会長、同じく元朝日新聞で自民党のマスコミ対策係、橋本登美三郎らがいた。それだけではなく、テレビ局の系列支配を企む新聞社全体が、電波免許の関係ではNHKとグルだった。そういう巨大な“トラの威を借るキツネ”が、飯田の正体なのであった。
だが、こういう広報室長の存在を許してきたことについては、新聞記者自体の責任も問われなくてはならないだろう。その新聞記者は、どうしていたのであろうか。このへんの“霞”(カスミ)を取り払わないことには、本体のNHKが見えにくいのだ。