《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!
電網木村書店 Web無料公開 2003.10.20
第一章 なぜNHKは《国営》ではないのか? 4
証拠なき犯罪は“電波の特性”か?
証拠といえば、このカット事件で、もうひとつの問題があった。今度の証人は、わたし自身である。かくいうわたしも、この件ではNHKに電話を入れた。NC9のデスクを指定して、簡単に、「三木元首相のインタビューのテープは、ぜひとも消さずに、後日のために残しておくよう努力してほしい」と頼んだのだ。応対した記者は、非常に素直な感じで、Kがぶつかった相手とは、まったく対照的なようだった。決して「のっぺらぼう」な印象ではなく、のちに『サンデー毎日』の特集「NHK報道局長VS現場記者」を手にした際にも、そこにリアリティを添えてくれた人物といえる。だが、その時に教えてもらったことのひとつは、新しい恐怖を呼ぶものであった。
「取材に使ったテープは、普通なら十日後には消す」
というのだ。このことの持つ意味は、まず、フィルムとビデオテープの比較をしておかないと、はっきりしにくいだろう。
テレビでニユース番組をフィルム取材で作っていた歴史は、意外に長い。すでに四半世紀を越えている。そして、フィルムの場合には、露光して現像をしてしまえば当然、生フィルムとしての再使用はきかない。だから、半端を切りすてはするが、本番で使用しなかった分も、そのまま保存しておくのが常識であった。何かの時にはベテランのフィルム編集者が、未使用も既使用も区別なく、フィルム保存用のカンからパッと探し出しては、特別の記録番組を作ってきたのである。吉田茂の“国葬”特番、天皇の“外遊”特番も、この方式で作られたし、いまも内密に、昭和天皇“国葬”特番の準備が進んでいる。
ところが、最初のビデオテープは高価なものだったし、磁石を使えば消去、再使用が可能であった。しかも初期には、長期保存をすると映像が乱れるようになるという性能だった。そこで、民放の地方局などで再使用が可能なドラマなどを除いて、どんどん消してしまっていたのである。映像と一緒に音声もテープのすき間に入っているから、これまた一緒に消えていった。だが、当初はもともと生放送でやっていたスタジオ番組が、一時ビデオテープに収められるという順序だったから、放送記録なり取材記録の消減に関して、社会的なり道義的な責任は問われなかった。
だが、日本では一九七五年以来、ENGと略称されるニュース用の小型テレビカメラとビデオテープの連結方式が発達した。これによって、テレビニュースは一変した。このビデオテープが、問題の三木首相のインタビューにも使われているのだ。
ビデオテープも小型化し、家庭用も出まわるほど安く作られるようになった。そして、かつてはフィルム取材がすべてを占めていた時事報道にも、進出した。それなのに、テープの記録は従来通り、どんどん消されていく。このままでよいのだろうか。ましてや、今度のカット事件のような際には、証拠隠滅のそしりを受けるべきところなのに……。
以上が、わたしの、NHKへの電話に先立つ問題意識であった。
NHKも民放も、もともと放送記録を公開しない。だが、それは決して、電波が瞬間的に姿を消すという物理的性質によるものではない。ニュースは特に、日本のラジオの草創期において、すべて原稿チェックを受けている。いまでもアナウンサーは原稿通りにしゃべっている。第一次的に文字で記されたものが姿を消すのは、明らかに人為的な理由によっている。これが歴史学なら、手書きの古文書が貴重品扱いとなる現代だ。やる気になれば、テープからの原稿起こしもできるし、テープの発明以前から、速記術さえあった。そのような記録の努力を放棄し、しかも、手元にあるものさえ外部には見せないのだ。
わたしに見せないからといって、ゴマメの歯ぎしりをしているのではない。第一級の評論家の中野好夫でさえ、「原文は外へお出しできませんという、まるで木で鼻をくくるような挨拶」(『中央公論』’78・10)を受けて、痛烈な皮肉を飛ばしている。
「それにしても、不思議なのはNHKというところである。かりに考えてみるがいい。これがもし活字文化なら、一度社会に発表したものを、あとでお知らせできぬとは、どの口でいえるか。ちゃんと紙面が残っているからである。ところが、NHKという機関は、空に消えるのをいいことに、理由は知らぬが、あとは知らぬ存ぜぬとは何の謂か。NHKという名の公共放送がどんな性格のものか、国民もとくと知っておくのがいいと思う」(同前)
中野好夫は、沖縄返還の日米共同声明の核兵器持込みに関する国内発表が、アメリカの上院外交委員会対外公約小委員会議事録などと食いちがうことを発見した。NHKのニュースは、いったん現地特派員報道として、そのニュアンスを伝えながら、続報をしない。海外新聞を見れば、時の佐藤政権のまやかしは証明できる。しかし、どさくさ解散で「欺瞞の三百議席」(同前原題)を与党が確保できた裏には、NHKなどの煙幕作戦があった。これを論証するのには、NHKニュースなどの記録が必須のものとなる。「たまたま、ある熱心な視聴者がちゃんと録音をとっていたので」(同前)中野好夫はそれを引用できたのだが、そうでもしなければ、NHKはとぼけ果せたであろう。
もともとこういう体質のNHKが、簡単に消せるビデオテープを多用しはじめたのだから、歴史の記録は瞬時に消え失せる。もちろん、他の活字メディアも発達しているから、考古学以前の状態にもどるわけはない。しかし、NHKの放送に関するかぎり、一番中心になる記録が抹殺されてしまうのだ。
この事情は単に、将来の放送史研究者なりに、材料が残らなくて困るという性質の問題だけではない。国会の議事録から夫婦げんかの仲裁人にいたるまで、第三者の客観的な分析のあるなしが、人間社会のモラルを支えている。その歯止めが不充分なことが、NHK人なり放送人の、言論人としてのモラルの低下を招いているとすれば、いまのいま、時々刻々の問題といわねばならないのだ。
このカット事件にも、その具体例がある。『週刊新潮』(’81・2・19)は「NHK報道局の事情に精通している某氏の話」として、こういう談話を載せている。
「三木さんの話がつまらなかったんだよ。それだけさ。あの、いつもの三木さんの調子で“政治の腐敗は世の中の乱れのもと”とかなんとか、グダグダやったんだね。で、報道局長が“こんなものやめちまえ”といったんだ。田中派の圧力でも何でもない。ただ、それを日放労(NHK労組)がまた編集権の侵害だとか、圧力があったんだとか騒ぎだし、新聞にも聞えてあの騒動になった。しかし、NHKとしては、三木さんの話がつまらなかったから、なんていえないからねえ」
そして、これだけを根拠に、「真相は別のところにある、といってよいだろう」などというデマ宣伝に走っている。
『週刊新潮』の最近の状況は、“公安ネタ”の巣としても有名になっている。ここでは、この週刊誌にNHKロビーがあるらしいことだけを、指摘しておこう。ともかく、他誌と較べてNHKについての記事数は、圧倒的に多い。局内にネタの提供者なりアルバイトの原稿料かせぎをしているものがいることは、雑誌編集のベテランならずとも、一目でわかる。いまや“NHKの闇将軍”とまでいわれる上田哲日放労名誉委員長については、とりわけ記事が多い。内藤国夫が上田哲との対談で、「『週刊新潮』なんかで、目の仇のように、しょっちゅう、やっつけられる」(『現代』’81・2)と水を向けていたくらいだ。
そのことは、またのちにふれることにして、さきの“NHK報道局事情通”と、わたしの友人のAが電話で直接会話したNC9の「思い上がり」派記者の像とを重ね合わすと、ことの真相が浮かび上がってくるようだ。これも、何の証拠も残らぬという長年の経験によって、感覚がマヒしたNHK人の一典型であろうか。
しかし、このカット事件に関しては、いくつかの強力な手掛りが残されている。肝心の三木インタビューについても、まさに同時期に、『毎日新聞』がインタビュー記事を載せている。いかにも“クリーン三木”らしい調子の発言が、質問や論評も含めて、写真入りで八段の記事になっているのだ。自民党内のコップの中のあらしには違いなかろうが、鈴木“直角”内閣の下では、やはり“反政府”的発言とみなされるだろう。これをしも、「グダグダ……」と評して葬り去るのであれば、本当の野党発言はどうなるのだろうか。
ところで、こういう趣旨の話をしていたら、マスコミの労働運動をやりながら評論も少しは手掛けている友人のSが、「オレもあの事件ではNHKに電話したんだよ」といいだした。S自身、マスコミ界の閉鎖状況をよく知っているから、電話の声がバレそうもないところへは、時間さえ許せば一市民として電話をしているという。
だが、Sの電話に応対した視聴者センターの担当者は、あまり感心できる人物ではなかったようだ。Sが事情を聞いていると、いきなり、「あなたは、そのNC9を見たんですか」と、いかにも挑戦的に切り返してきたそうだ。Sが、見ていないというと、しめたとばかりに、「困るんだなあ、見ないで文句をいわれては…」ときた。見ていれば、あのロッキード特集に編集上の問題を感じなかったはずだという。Sは、あきれて面倒くさくなり、「わたしはNHKも民放も、テレビのニュースをいちいち見てるほど暇じゃありませんよ」といった。
「活字を読むのが不得手な国民をたぶらかしてきたのが、NHKの歴史でしょ。だから監視はしなきゃいかんとは思いますが、みんながみんな、テレビの前にへばりついてるわけにはいかないでしょ。見ないで批評するなというんだったら、新聞みたいに、あとからでも読み直せるようにしてほしい。少なくともニュースぐらいは、議事録のように一般人がいつでも見られるようにしてくださいよ」
「そんなに費用がかかることはできませんよ。受信料をいただいて……」
「待ってくださいよ。あなたはいかにも費用が大変だという言い方をするが、試算でもしたことがあるんですか」
「わたしはしてませんけど、だれかやってるはずですよ。常識で考えてもわかるでしょ。一日で何時間ニュースがあると思いますか」
なかなか口達者な相手なので、その場はあきらめ、NHKの広報室に電話をかけなおした。聞いてみると、やはり、ニュースを活字に起こす作業について、試算したという事実はないらしい。そんなことから、Sが指摘するのは、つぎの点だった。
NHKだけではないが、マスコミ界の人間には、その場の思いつきで切り抜けようとするいい加減さがある。また、しゃべり方からみて、毎日たくさんのニュースを流しているのが自慢らしいが、まったくわかっていない。山高きが故に貴からず、ではないか。大本営発表に象徴されるものを、もっと本質的に追及すべきではないだろうか。
この話を聞いて、わたしは、新聞のテレビ欄をひろげ,NHK第一放送の二ュースと報道番組の時間を計算してみた。三月十四日の土曜日で、約二百八十分、アナウンサーのしゃべり言葉は一分間で四百字平均というから、掛算すると、十一万二千字になる。これをたとえばタイプに打つとして、平均的で疲れない量は一人一日五、六千字らしいから、休暇等も考えて三十人。テープからの原稿起こしに同じ人数、その他で、百人もいれば可能ではないか。たしかに人件費は相当になる。しかし、NHKの総人員約一万七千人からすれば、○・六%以下である。印刷等の予算を含めても、年間総予算に占める割合だって、一%をはるかに下まわるだろう。しかも、かなりの研究機関などが、そのコピーを有料で購入するから、相当額は還元されるはずだ。
新聞との比較を計算してみると、二十四ページの朝刊で、一面が十五段、九十八行、一行が十五字だから、全部がベタ活字の計算で、四十二万九千二百字となる。字数はその半分はあるし、夕刊もある。つまり、NHKのニュースと報道番組を活字化してみれば、新聞より少なくなりそうだ。これを縮刷版のようにすれば、そこらの図書館にも、充分に収容できるではないか。そして、これまたNHKの収入源ともなる。万々歳ではないか。
NHKがもし、その場限りではないニュースを出し、世論の批判に耐えうる水準の報道番組を作っているといいたいのなら、このような活字記録化の努力をすべきである。そうしないかぎり、放送は無責任な三流文化の域を脱しえないし、権力側の一方的な宣伝の具にとどまるしかないのである。