第三部:戦争を望んでいた「白い」悪魔
電網木村書店 Web無料公開 2001.7.1
第九章:報道されざる十年間の戦争準備 1
「イラク処分」への一本道は十数年前から敷かれていた
さて、以上のケース・スタディは、もっぱら「裏議会」ルート追及の試みであった。いわば地下水脈の探索である。だが、問題のご主人たち、石油マフィアに東部エスタブリッシュメント、新興のカリフォルニア・マフィア、少し斜に構えてユダヤ・ロビーの面々が描いていた政治的・軍事的青写真は、はたして完全に極秘だったのだろうか。その一端なりとも地上の正規ルートで入手できれば、「謀略」の世間的判定は容易になる。特に重要なのは、アメリカの軍事計画であろう。
ところが、いかにも象徴的ながら、「石油」ではなく「水」の確保を「戦争」の歴史的目的の筆頭に掲げるアメリカ支配層の中東戦略思想は、すでに湾岸危機の十数年も前から声高らかに表明されていた。克明な公式文書の数々も一般公開されていたのだった。それらがなぜ今回の湾岸危機に際して、大手メディアで報道されなかったのか。「平和のペン」の武器として活用されなかったのか。これもまた重要かつ決定的な反省点なのである。
一九七三年に勃発した第三次中東戦争と、それに起因するオイル・ショック以来のアメリカの対中東戦略に関しては、すでに紹介ずみだが、湾岸戦争後(8・20)に出版された『石油資源の支配と抗争/オイル・ショックから湾岸戦争』の分析が、最も鋭い。著者は外資系石油会社に勤めた経験を持つ宮嶋信夫(本名は白石忠夫)であり、主にアメリカ当局側の資料とアメリカ国内の報道を綿密にほり起こして活用しているために、不気味なほどの説得力を発揮している。
以下、同書の記述を、まず新聞報道関係にしぼって要約してみよう。
一九七四年、フォード大統領は世界エネルギー会議の席上、石油価格上昇に関して、「各国民は歴史上、水や食糧、陸上・海上の交通路を求めて戦争に訴えてきた」と警告を発し、それを受けてアラブ諸国の新聞は「アメリカ、アラブに宣戦布告」などと論評した。二ヵ月後、アメリカはペルシャ湾で空母をふくむ八隻の艦隊による演習を、二週間にわたって繰り広げた。さらに、「一九七五年一月、フォード大統領にキッシンジャー国務長官は『OAPEC(アラブ石油輸出国機構)諸国が石油禁輸を行ない、自由世界、先進工業国の息の根が止められる場合には米国は中東で武力行使することを否定しない』と記者会見で明言した。その準備行動として、米国の中東砂漠に似た砂漠地帯で海兵隊の演習を行なう、と世界に向けて報道した」のである。このような対中東戦略は、一九七九年のホメイニ革命に対抗するカーター・ドクトリンに明文化され、「緊急展開軍」創設から「英雄」シュワルツコフの「中央軍」へと発展強化されていった。
宮嶋は、「カーター・ドクトリンでは湾岸地域での脅威がソ連軍であるかのようなあいまいな部分があったが……」と、アメリカ当局のかくれみの作戦を指摘しつつ、「国防報告」などによって「敵は石油にあり」の本音を容赦なく暴いている。
ペルシャ湾への米艦隊出動は、その後も、イラン革命におけるアメリカ大使館人質事件、イラン・イラク戦争におけるタンカー戦争と、機会をとらえては機敏に展開された。タンカー戦争では、クウェイトの要請に応じて出動するという手続きを取っているが、この時期からすでに今日のワシントン=リアド=クウェイト枢軸関係が深まっていたのである。
テレヴィ軍事評論ではもっぱら、「もともとは対ソ連戦略の中央軍」とか、「砂漠に不馴れなアメリカ軍」とかいう論評になっていた。だが実際には、「米国の中東砂漠に似た砂漠地帯」として選ばれたカリフォルニア州のモハヴィ砂漠で、十数年もの期間をかけた猛訓練が続いていたのである。 「温度の違い」の指摘や、実例として、テヘランのアメリカ大使館人質事件での救出作戦失敗……砂嵐でヘリコプター墜落……をあげる例もあったが、「失敗は成功の母」の教訓として生かされたと考えるべきだろう。相手は戦争技術のプロである。テレヴィ軍事評論の大部分は、真相を知る関係者にとって、いかにも滑稽な話だったに違いない。
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