隠された十数年来の米軍事計画に迫る
電網木村書店 Web無料公開 2001.1.1
第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか
『イスラム報道』という本の存在については、すでに国家安全保障会議担当補佐官スコウクロフトの経歴との関係で紹介した。
この本の序文で、著者のE・W・サイードは、原題『COVERING ISLAM』の「しゃれ」についてわざわざ「読者には明らかだろうが」と念を押している。「Cover 」という単語は最近になって「報道」の意味で頻繁に使われ、日本でもカタカナ語として通用するようになったが、手元の英和辞典のこの項には[もと米]という由来の説明がある。アメリカで流行り出した用法なのであるが、もともとは「おおう、包む、おおい隠す」の意味であり、「cover over」とか「cover up」となると、さらにはっきりと「(悪いことを)包み隠す、くらます」という、「報道」とは真反対の意図的な「隠蔽」を意味するのである。
サイードは、一九三五年にイギリス統治下のエルサレムで生まれたパレスチナ人。カイロのヴィクトリア・カレッジを経てアメリカのプリンストン大学で修士号、ハーバート大学で博士号を受けている。一九七四年にハーバートで客員教授、以後、スタンフォード大学行動科学高等研究センターで研究員、ジョンズ・ホプキンス大学で客員教授を勤め、一九八〇年からはコロンビア大学で教授として英文学および比較文学の講義をしている。生まれは中東で、イギリス流の英語を使いながら育ってからアメリカに渡ったわけだし、言語は専門なのだから、アメリカ式英語の用法だけでなく、アメリカにおける中東問題の報道に対する感覚には特別の鋭さがあるようだ。
『イスラム報道』の原著出版は一九八一年である。サイードはそれ以前の一九七八年に『オリエンタリズム』、一九七九年に『パレスチナ問題』を発表しており、これらが中東問題の三部作をなしている。『イスラム報道』は一九七九年から序文の日付の一九八〇年十月の間に執筆されたことになるが、中東に関する問題意識は数年来継続している。これらの時期の観察をふまえて、サイードはこう書いている。
「近年、アメリカ政治における『ベトナム症候群』について多くが書かれているが、はるかかなたのアメリカの利益を不安定と暴動から軍事力で防衛せねばならぬという主張が、いつの間にかベトナムからより近いイスラム世界へ全面的に移されることになったことについては誰も注目していない」
ヴェトナムで敗退したアメリカの支配層は、すでにその前後から、イスラム・アラブ圏の「悪魔化」儀式に取りかかっていた。現在進行中のジャパン・バッシングの「悪魔化」目玉商品はヴィデオ・カセットや自動車だが、イスラム・アラブ圏のそれはOPEC(石油輸出国機構)結成による石油の値上がりとその結果としてのオイル・ダラー支配であった。さらには、「昔ながらのイスラム観」が、その儀式を容易にしていた。爆発的なきっかけは、一九七九年のイランにおけるイスラム革命であり、それに続いて、イランの首都テヘランで学生たちがアメリカ大使館を占拠し、五十二人のアメリカ人を四百四十四日間も人質とした事件であった。
『イスラム報道』の表現によると「イラン事件の象徴とされた黄色いリボン」は、今度の湾岸戦争でも、アメリカ軍兵士の無事帰還を願って町角の柱を飾った。 「黄色いリボン」には近年の流行歌という新しい出発点もあるが、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の典型的な昔風西部劇映画に『黄色いリボン』があり、当時の私ら日本の子供の耳には「バッテンボー(罰点棒)」としか聞こえなかった「(騎兵隊の制服の)ボタンとリボン」というリフレインつきの主題歌があったことを思い出す必要があるだろう。歌の文句の終わりに誇らし気に調子よく響く「U.S.Cavalry 」(合衆国騎兵隊)の伝統によると、女性が黄色いリボンを髪に飾るのは、騎兵隊員の恋人だということを周囲に示すことなのであった。
と、ここまで書いたのちの一九九二年二月二十九日、ニューヨークで「湾岸戦争・国際戦争犯罪法廷」が開かれ、三月四日には、参加した日本代表団の報告集会が持たれた。集会の最後に指名されて、参加の感想をトツトツと語ったボランティアの中年女性の口からもれた一言に、私は突如ミゾオチを突かれる思いをした。
「とても強く印象に残っているのは、オパタ・マタマーという名前のインディアン代表の女性の話でした。アメリカでは湾岸戦争の兵士の無事帰還を祈って黄色いリボンを飾りましたが、あの黄色いリボンは、騎兵隊のカスター将軍が肩につけていたのが始まりだそうです。アメリカ人はアラブ人との戦いを、かつてのインディアン討伐と同じ感覚でやっているのだと、オパタ・マタマーさんは話されました」
私は、ヴェトナム戦争後に何冊か出た「インディアン討伐」問題の本を読んでいた。カスターは南北戦争で「特別少将」となったが、戦後の軍縮で中佐に格下げされ、スー・シャイアンの連合軍に敗れて死んだこと。アメリカ側で英雄扱いされたが、もともとは士官学校時代からの乱暴者で、戦闘自体も無謀極まるものだったこと。などなどを、かすかに記憶していた。これらの記憶の連鎖が、背筋を電撃のように貫いたのだった。あいにくと、古い蔵書は手元になくて確認しようがない。図書館で人物伝の資料を当たってみると、金髪を長くなびかせていたし、特別仕立ての軍服に金モールを飾っていたとある。確かに「金色」もしくは「黄色」のイメージだ。
アメリカ人自身による研究も『イスラム報道』の参考文献リストに載っているが、サイードは、騎兵隊による「インディアン討伐」以来のアメリカの「正義」が、その「悪魔化」主目標をイスラム圏に変え始めたことを、湾岸戦争の十年以上前の「誰も注目していない」時期から見抜き、警告を発していたのだ。サイードは、「一九八〇年夏、アメリカ人の代替エネルギー源についての考え方を述べるため、人目を引くテレビ広告」が現れた例を、本編の冒頭に指摘している。「ひと目でそれと分るアラブ服」、「ホメイニ、アラファト」……「『これらの人物』がアメリカの石油入手源をコントロールしているのであると、ドスをきかせて語られ」るというシロモノであったらしい。ところが湾岸戦争直後、NHKの石油問題特集で、まさにこの系統を継ぐアメリカのテレヴィCMが紹介された。サダム・フセインは白馬にまたがって、いかにも「西部劇のインディアン」さながらの好戦的な姿で現れた。これらの映像と音声による「心理戦争」の十年の経過は、日本ではまったく報道されていなかったのである。
この十年、「報道」が「隠蔽」し続けてきた決定的事実には、どんなことがあるだろうか。
第三章:CIA=クウェイトの密約文書
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