Free Mumia Abu-Jamal
ムミアの死刑執行停止を求める市民の会
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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊

ムミア関連年表

1981/ 12/9
3:55 a.m.頃
フォークナー巡査射殺事件発生。ピストルで撃たれて現場に倒れていたムミア・アブ=ジャマールが、警官の暴行を受け、逮捕される。
1981/ 12/9
4:52 a.m.
フォークナー巡査が、ジェファーソン大学病院で死亡。
同じ病院に収容されたムミアも重体。
1982/ 1/20 ムミアが Paul Ribner判事によって法廷に召喚される。予審の開始。
1982/ 6/1 裁判準備手続きで、陪審選定が開始される。担当はアルバート・セイボ判事。以降、彼がこの裁判をひきつづき担当する。
1982/ 6/4 ムミアは自分自身で自分の弁護を行う。セイボ判事は、ムミアが法廷に要求した3つの項目をすべて拒絶。
1982/ 7/2 ムミアに対し、第一級殺人と武器携行の罪で有罪が宣告される。
1982/ 7/3 陪審が死刑を評決。
1983/ 5/23 ムミアは判決の取り消しを要求する法的措置をとるが、却下され、セイボ判事は正式に死刑判決を下す。
ムミアの身柄がHuntingdon州刑務所の死刑囚監房に移される。
1989/ 3/6 ペンシルベニア州最高裁が有罪と死刑を確定する。4名の判事が死刑確定に賛成し、2名の判事はこの事案の担当をはずれた。その理由は明確ではない。
1990/ 10/1 連邦最高裁が、判決見直しというムミアの上訴を退ける。
1990/ 11/26 再審問の要求も却下される。
1991/ 6/10 2度目の再審問要求も却下される。
1995/ 1月 ペンシルベニア州でもっとも警備の厳しいことで知られるグリーン刑務所に、移管される。
1995/ 6/1 ペンシルベニア州知事トム・リッジがムミアの死刑執行命令書に署名。
死刑執行期日を8月17日に定める。
1995/ 6/5 ムミアの主任弁護士、レオナルド・ワイングラス氏が、人身保護請求( ヘビアスコーパス )を提出。再審請求のための法的手続きにはいる。死刑執行予定期日の8月17日をはさみ、9月まで、再審を行うか否かを決定するためのヒヤリングが行われることとなる。
しかし、この担当判事が一審と同じセイボであることに非難が集中。
1995/ 6/9 ペンシルベニア州矯正局は、ムミアがジャーナリストとしての仕事を獄中で行ったことを理由に懲罰措置をとり、外部との電話連絡を禁止する。
この後も、弁護士との間で取り交わした裁判打ち合わせのための書簡が開封され、知事のスタッフに渡されるなどの訴訟妨害がつづく。ムミアは後にこの件で民事訴訟を提訴する。
1995/ 8/7 ムミア弁護団の再審請求を受け、その結論が出るまで死刑執行を無期限停止することをセイボ判事が認める。
再審が認められなければ、連邦裁判所に舞台が移ることになる。
1995/ 8/11 再審のためのヒヤリングの中で、証言にたったシングレタリー氏が、射撃事件がおこったとき、ムミアはまだ現場に来ていなかった、という重大証言をする。
1995/ 9/15 セイボ判事、再審請求を却下。
弁護団はペンシルベニア州最高裁に上訴。
1996/ 5/22 1982年の一審裁判の際に、ムミアに不利な証言をしたヴェロニカ・ジョーンズさんが、ワイングラス弁護士とともに記者会見。当時の証言は、警察による脅迫によって、やむなくなされた偽証であったことを14年ぶりに明らかにした。
1996/ 9/18 ヴェロニカ証言によって新たな局面をむかえ、再審請求のためのヒヤリングが開かれる。しかし、担当判事がまたしても、一審で死刑判決を下した本人であるアルバート・セイボであることから、公正な裁判は望めないとして、非難が起こる。
1996/ 10/1 ヴェロニカ・ジョーンズさんが証言台に立つ。彼女は、検察側の執拗な反対尋問にもかかわらず、一審でのムミアに対する不利益な証言は、警察の脅しに屈した偽証であることを最後まで証言。
彼女の証言が終わるや、検察官は数年前の手形にかかわる些細な別件を理由に、法廷でジョーンズさんを逮捕した。このあからさまな証人脅迫をセイボは許可した。
1996/ 11/1 セイボ判事は、ジョーンズ証言を不採用とする決定を下す。
1997/ 3/14 ジョーンズさんに次いで、パメラ・ジェンキンズという女性も、一審での警察による証拠捏造を証明する証言を行った。
ムミアを犯人だと特定したシンシア・ホワイトは、当時現場にいなかった、という証言があるが、これを裏付けるもの。ジェンキンズさんは、事件当時警察官のボーイフレンドから、ムミアに不利益な証言をするように求められ、断ったが、そのかわりにシンシア・ホワイトを警察官に紹介したことを明らかにした。
1997/ 7/24 セイボ判事は、またしてもパメラ・ジェンキンズさんの証言を不採用とした。
1998/8/25 95年の再審請求時に、ムミアを懲罰に課し、弁護人との秘密交通権を侵害した行為に対して、連邦控訴審裁判所は、一審のムミアの勝訴(1996年末)を追認し、ペンシルベニア州矯正当局の行為を違法とする判決を下した。
1998/10/29 ペンシルベニア州最高裁が、ムミアの再審請求棄却の決定を下す。
トム・リッジ知事は、最高裁が再審請求を棄却すれば、ただちに死刑執行命令に署名する、と以前から公言しており、執行の危険性が高まっている。
各地で抗議行動が開始されている。
1999/4/24 ミリオンズ・フォー・ムミア大集会。フィラデルフィアとサンフランシスコで合計5万人の人たちが、ムミアの釈放、再審の開始、死刑執行の停止を求めて集会とデモを行った。
1999/10/4 合州国連邦最高裁、writ of certiorari(裁判管轄移管命令)を却下。
1999/10/13 トム・リッジ ペンシルヴァニア州知事、ムミアの死刑執行命令に署名。執行期日を12月2日と指定。
1999/10/15 弁護団、人身保護請求(habeas corpus)をフィラデルフィア連邦地裁に提出。死刑執行の停止を求める。
1999/10/26 連邦地裁、ヨーン判事、死刑執行の停止(stay)を決定。
執行の危機は、連邦地裁の審理が終了するまで一時的に回避された。
2001/ 2月 ムミア、弁護団全員を解任。
2001/ 4/6 連邦地裁、ヨーン判事、ムミアの弁護団解任を承認。30日以内に新たな弁護人を選任するように求める。本人訴訟の許可は却下する。
2001/ 5/4 ムミアの新弁護団のEliot Lee GrossmanとMarlene Kamishが記者会見し、新証拠として3点の供述調書を提出することを明らかにした。
その供述調書とは、ムミア本人による事件当夜の叙述。ムミアの弟ビリー(ウィリアム・クック)による供述、そして、自分がフォークナーを射殺したという、アーノルド・ビバリーという人物の自白調書である。
また、1982年の法廷で速記者をしていたテリー・モラカーターという女性の宣誓供述も明らかにされた。それによれば、セイボ判事が休廷時間中に被告人に対する人種差別発言を行ったという。
2001/ 7/19 ヨーン判事、ビバリー供述の証拠採用を却下。96年にクリントン政権下で制定された、「反テロおよび効率的死刑法」の規定によって、証拠提出の期限が切れているというのが、却下理由の一つ。
2001/ 8月 新弁護団、ワイングラスら、前弁護団の弁護が有効でなかった(ineffective)として、州裁判所に再度審理を求める提訴をおこす。この件のヒヤリングで、8月17日に、ムミアが6年ぶりで法廷に(つまり公衆の前に)姿を見せるのではないかと予測されている。
この後、ムミアの出廷が取り消される。
2001/12/18 ペンシルベニア東地区連邦地裁、ウィリアム・ヤーン判事、ムミアの再審請求を却下。量刑についてのみ、見直しを命じる。
2005/12/6 第3巡回区連邦控訴裁判所、弁護側の請求の一部を認める決定を行う。決定書