Free Mumia Abu-Jamal
ムミアの死刑執行停止を求める市民の会
the crime scene,Locust and the 13th Mumia, the voice of the voiceless
HOME
新しい情報
事件の概要
ムミアとは誰か?
12月9日、何があったのか?
ムミア裁判について
事件現場と関係者図
ムミア関連年表
無実を証明する新証拠
裁判の経緯
これまでの情報ログ
ムミアの論考集
ムミア関係リンク集
今井恭平の文章
ニューヨーク取材日誌

死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊

ムミアとは誰か


 1954年4月24日、フィラデルフィアに生まれる。高校生の頃から人種差別反対などの運動に積極的に参加。15歳のとき、悪名高い人種差別主義者、ジョージ・ウォレスの大統領選挙キャンペーンに抗議した際、白人優位主義者と警察官から手ひどい暴行を受ける。
 その後、1968年秋、フィラデルフィアのブラックパンサー党(BPP)設立メンバーの一人となる。同党では早くから文筆の才能で頭角をあらわし、1970年の夏、オークランドとカリフォルニアで機関紙の仕事にたずさわる。

BPPで執務する、ティーンエイジャーの頃のムミア
 その後、1970年代はじめから、ラジオ・ジャーナリストとしての活動を開始し、National Public Radio、Mutual Black Network、National Black NetworkやWUHY(現在のWHYY)などのラジオ局で取材記者、コメンテータなどとして活躍する。
 一貫して貧しい人たち、抑圧された人たちの立場からの報道を貫き、警察による人種差別的暴力行為や汚職、貧困層を省みない政策などを批判する論陣をはった。こうした戦闘的なジャーナリズムによって、当時の市長や州知事、警察などから目の敵にされた。ことに1978年、MOVEという黒人運動グループが600人以上の武装警官に包囲攻撃され、多数が逮捕された事件を非難したことで、ラジオ局から解雇される。彼はフリーランスとなって報道を続けるが、同時に家族を支えるために夜勤のタクシードライバーとなって働くことになった

1978年のMOVEへの弾圧
 1981年12月9日早朝、フィラデルフィア警察のダニエル・フォークナー巡査が殺害されたとき、ムミアがタクシーを運転して現場を通りかかったのには、こうした背景があった。そして、現場に駆け付けた警官隊により暴行を受けた末に、警官殺しの罪名で逮捕された。
 瀕死の重傷を負いながら何とか生き延びた彼は、人種差別主義の裁判官、アルバート・セイボによる偏見に満ちた強権的訴訟指揮と拙劣な国選弁護人の無策によって、翌82年7月3日に死刑宣告をうけた。ペンシルベニア州最高裁への上告は1989年3月に却下され、連邦最高裁への上訴も拒否され、確定死刑囚となった。

 1995年6月、著名な弁護士、レオナルド・ワイングラスを団長とする新たな弁護団のもとで再審請求(Post Conviction Releaf Action)をおこす。だが、当時の州知事トム・リッジは死刑執行命令に署名。処刑の強行によって再審請求を押しつぶしてしまおうとする。これに反対して、世界中でムミアの処刑中止と、公正な裁判、そして釈放を要求する運動が高まる。
 以来、再審請求のための闘争を継続し、現在(2006年2月)連邦控訴審裁判所で、再審請求をめぐる審理が行われている。
 彼はすでに四半世紀にわたって、狭い死刑囚監房に閉じこめられたままだが、にもかかわらずインターネットを通じて毎週のように政治的批判精神に富んだコメンタリーを発表。<注>抑圧された者の側に立ってたたかうジャーナリストとしての仕事を継続している。また、獄中から公刊した著書もすでに以下の5冊にのぼっている。
Live from Death Row Death Blossoms All Things Censored Faith of our Fathers We Want Freedom
Live from Death Row
日本語訳『死の影の谷間から』今井恭平/訳 現代人文社/刊
Death Blossoms All Things Censored Faith of our Fathers We Want Freedom :
A Life in the Black Panther Party
<注> ムミアのインターネットラジオ放送は、以下で聴取できる。
Prison Radio PRISON RADIO