ムミアとは誰か
1954年4月24日、フィラデルフィアに生まれる。高校生の頃から人種差別反対などの運動に積極的に参加。15歳のとき、悪名高い人種差別主義者、ジョージ・ウォレスの大統領選挙キャンペーンに抗議した際、白人優位主義者と警察官から手ひどい暴行を受ける。
その後、1968年秋、フィラデルフィアのブラックパンサー党(BPP)設立メンバーの一人となる。同党では早くから文筆の才能で頭角をあらわし、1970年の夏、オークランドとカリフォルニアで機関紙の仕事にたずさわる。
一貫して貧しい人たち、抑圧された人たちの立場からの報道を貫き、警察による人種差別的暴力行為や汚職、貧困層を省みない政策などを批判する論陣をはった。こうした戦闘的なジャーナリズムによって、当時の市長や州知事、警察などから目の敵にされた。ことに1978年、MOVEという黒人運動グループが600人以上の武装警官に包囲攻撃され、多数が逮捕された事件を非難したことで、ラジオ局から解雇される。彼はフリーランスとなって報道を続けるが、同時に家族を支えるために夜勤のタクシードライバーとなって働くことになった
瀕死の重傷を負いながら何とか生き延びた彼は、人種差別主義の裁判官、アルバート・セイボによる偏見に満ちた強権的訴訟指揮と拙劣な国選弁護人の無策によって、翌82年7月3日に死刑宣告をうけた。ペンシルベニア州最高裁への上告は1989年3月に却下され、連邦最高裁への上訴も拒否され、確定死刑囚となった。
1995年6月、著名な弁護士、レオナルド・ワイングラスを団長とする新たな弁護団のもとで再審請求(Post Conviction Releaf Action)をおこす。だが、当時の州知事トム・リッジは死刑執行命令に署名。処刑の強行によって再審請求を押しつぶしてしまおうとする。これに反対して、世界中でムミアの処刑中止と、公正な裁判、そして釈放を要求する運動が高まる。
以来、再審請求のための闘争を継続し、現在(2006年2月)連邦控訴審裁判所で、再審請求をめぐる審理が行われている。
彼はすでに四半世紀にわたって、狭い死刑囚監房に閉じこめられたままだが、にもかかわらずインターネットを通じて毎週のように政治的批判精神に富んだコメンタリーを発表。<注>抑圧された者の側に立ってたたかうジャーナリストとしての仕事を継続している。また、獄中から公刊した著書もすでに以下の5冊にのぼっている。
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