『読売新聞・歴史検証』(8-3)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第八章 関東大震災に便乗した治安対策 3

東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見

 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。

『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。

 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。

 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。

 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。要点はつぎのようである。

「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」

「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」

 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。

 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。


(8-4)号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄