『読売新聞・歴史検証』(6-3)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 3

帝国主義政策のイデオローグだった初代台湾総督府民政長官

 後藤新平(一八五七~一九二九)は、岩手県水沢市の小藩出身で、同藩出身の有名な幕末の蘭学者、高野長英の親族である。そのような血筋の縁もあってか比較的に国際的視野がひろく、日本の帝国主義確立時代の代表的政治家として位置づけられている。

 あだなは「大風呂敷」だった。大仕事にかかわった実績もあるが、ハッタリを利かせる面も強かったのであろう。政治的な最高位は、ともに副首相格の外務大臣、内務大臣である。晩年には伯爵の位をえた。本書では数ある評伝のなかから、後藤の政治的業績の特徴とメディアの関係を中心にして、ごく一部のみを要約紹介する。

 内務大臣としての後藤とメディアの関係を考える上で、もっとも参考になるのは先輩の原敬であろう。原と新聞の関係については、すでに、海軍による読売買収工作の際の内務大臣として紹介した。原は、その頃に、「二、三十万あらば多数の新聞を操縦する事を得べし」と考えていた。首相になった原は、朝日を謝らせて「白虹事件」収拾の実績を挙げた。内務大臣の職務には、当然、世論操作なりメディア統制なりが含まれているが、大臣の個人的資質も大いに影響があるだろう。

 後藤の場合には、衛生部門とはいえ内務省の一角での経験を経て、さらに大規模な海外植民地経営に従事し、再び内務省とその人脈を掌握するにいたっている。いわば、「山に入り、山を出づるものにして、初めて山を知る」ということわざ通りの内務省内外の体験をしたのちに、古巣のトップに踊りでたのである。後藤の世論操作、メディア統制には、やはり、当時の水準を抜く意識的な熟練性があったと考えるべきであろう。

 後藤は、須賀川医学校を卒業して医師となり、愛知県立病院長を経て内務省に入る。一八九二年には、現在ならば厚生省の事務次官に当たる衛生局長になった。その間、三〇代前半にはドイツで医学を学ぶが、当時のドイツは、その中心をなすプロイセンがナポレオン三世のフランスをやぶって、こともあろうに、敵地のパリの王宮で皇帝の戴冠式を行い、念願の統一ドイツ帝国の建国を宣言したばかりである。いかにも侵略的な、武力を誇る風潮の国柄であった。

 伝記の『後藤新平』(1)~(4)は、死後に、後藤新平伯伝記編纂会が各界有志によってつくられ、女婿の鶴見祐輔(一八八五~一九七三)が編著者となって作成したものである。その(1)によると、ドイツでの経験が後藤の政治家としての後半生を定めるものであった。ドイツ留学中のエピソードの紹介によると、後藤は、医学上の研究よりもむしろ、おりから進行中だった統一ドイツ帝国におけるビスマルクの国家建設に影響を受けるところが大だったようである。しかも、本人の弁によるとビスマルクから直接、つぎのようにいわれたというのである。

「君は医者というよりも、どうも政治に携わるべき人物に見える」

 なにしろあだ名が「大風呂敷」だから、いちいち本人のいうことを鵜呑みにするわけにもいかないが、帰国後の後藤は事実、近代政治家としての道を歩む。

 後藤は、明治型の閥族政治を改革する実務主義的な近代政治家となった。しかし、それは同時に、おりからの大日本帝国の海外侵略を効率的に推進する役回りを担うことでもあった。

 以下、今後の研究のために、主要な資料を紹介しつつ、後藤の正体に迫ってみたい。

 数多い評伝のなかには、著者などの詳細は不明だが、『新領土開拓と後藤新平』という題名の本もあったようである。本人の講演録には『日本植民政策一斑』とか『日本膨脹論』といった物騒な題名のものもある。この二つの講演録については、その合本が国会図書館にあった。『日本膨脹論』だけの初版は講談社から出ていたようだが、同じ講談社から出た後藤の別の著作『政治の倫理化』の背表紙の広告欄に、「たちまち九版、徳富蘇峰激賞」などと書き立てられている。内容は、なんと、年齢的にも時代的にも後輩のヒトラーが顔負けするほどの、バリバリの日本民族優秀説である。


(6-4)問答無用の裁判で「約一万二千人を『土匪』として殺した」